伝記
マルクスは、4世紀前半のローマ教皇である。336年1月18日に教皇に選ばれ、同年10月7日に没した。在位はわずか8か月20日ほどで、ウィリウス・ネポティアヌスとテッティウス・ファクンドゥスが執政官の年にあたる。生年は不明である。ローマの出身とされる。カトリック教会の聖人で、記念日は10月7日である。ローマに聖マルコ教会を建てたと伝えられる。
教皇になる前の経歴はほとんど分かっていない。「リベリウス目録」、エウセビオスの年代記、「教皇の書」といった資料の断片が手がかりで、「教皇の書」は彼をローマの生まれで、プリスクスという人物の子とする。皇帝コンスタンティヌスは、ドナトゥス派の問題を調べるため司教の会議を招集した際、教皇ミルティアデスと、マルクスという人物にあてて手紙を書いた。このマルクスが同一人物ならば、ローマの聖職者の中で重要な人物だったのだろうと考えられている。ただ、司祭だったのか助祭だったのかは分からない。
短い在位は、アレイオス派をめぐる危機の時期にあたった。ニカイア信条を擁護する人々が、アンキュラのマルケロスのように免職され、アレクサンドリアのアタナシオスのように追放される一方、アレイオス自身がコンスタンティノポリスで没した時期である。しかし、ローマの司教が当時の論争に加わったことをうかがわせるものはなく、アタナシオスとの往復書簡とされるものは、偽書とされる。
教皇の書によれば、マルクスはオスティアの司教にパリウムを与え、この司教が常にローマの司教を聖別するよう定めたという。実際、アウグスティヌスは、ローマの司教を聖別する3人のうち、オスティアの司教が筆頭だったと伝えている。マルクスは都市の大司教たちにもパリウムを授けたとされるが、そのような慣習の痕跡はなく、4世紀の資料に記述もないため疑わしい。オスティアの司教のパリウムの慣習は、のちの時代に定着したもので、彼はすでに行われていた特権を確認しただけかもしれない。この時期に、司教と殉教者の記念日の一覧が編まれはじめた可能性もある。
彼は、二つの聖堂の建立を命じたらしい。一つは、自分の家を改めて聖堂とし、のちに福音記者マルコにささげたもので、現在のヴェネツィア宮殿に取り込まれている聖マルコ聖堂にあたる。もう一つは、アルデアティーナ街道沿いのバルビナの墓地に築いた墓所の聖堂で、遺構は17世紀に失われたが、1990年代の初めに一部が見つかった。皇帝コンスタンティヌスから、二つの聖堂のための土地と調度を受けたという。マルクスは自分が用意していたバルビナのカタコンベに葬られ、のちに遺骨は聖マルコ聖堂へ移された。
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