HISTORICAL PERSON · 2006年没

ビュレント・エジェヴィト

トルコの政治家・詩人。初め共和人民党、のち民主左派党の党首を務め、複数回にわたり首相に就任した。

生涯
2006年没
死亡地
トルコ共和国(アンカラ県 / アンカラ)
出生地
トルコ共和国(イスタンブール)
出典
世界地図
トルコ共和国(アンカラ県)

伝記

ビュレント・エジェヴィトは、1925年5月28日にイスタンブールで生まれ、2006年11月5日に没したトルコの政治家である。初めは共和人民党、のちに民主左派党の党首を務め、1974年から2002年までの間に、複数回にわたって首相に就任した。詩人、作家、記者としても知られる。

本名をムスタファ・ビュレント・エジェヴィトといい、中流の家庭に生まれた。祖父ムスタファ・シュクリュ・エフェンディは、クルド系のイスラーム学者であった。父ファフリは、アンカラ大学法学部の法医学教授で、のちに共和人民党の議員となり、母ファトマ・ナズルは、トルコで早い時期に職業として絵を描いた女性の1人であった。1944年に、英語で教育を行うアメリカ系のエリート校ロバート・カレッジを卒業し、アンカラで出版総局の翻訳者として働いた。1946年に同級生のラフシャン・アラルと結婚して、ロンドンのトルコ大使館の報道担当官を務めた。ロンドンでは東洋アフリカ研究学院でベンガル語やサンスクリット、美術史を学んだが、卒業はしていない。帰国後は共和人民党の機関紙『ウルス』の記者となり、編集にもあたった。1955年には客員記者として3か月アメリカに渡り、南部で目にした人種差別に心を痛めた。1957年にはロックフェラー財団の奨学金でハーバード大学で8か月学んだ。同じ1957年の総選挙で共和人民党から立候補し、アンカラ選挙区で当選して、大国民議会の議員になった。

1961年、前年のクーデターで民主党政権が倒れ、共和人民党が政権に復帰すると、イスメト・イノニュ内閣の労働相となった。1965年の総選挙で党が敗れて下野すると、「中道左派」を新路線として提唱し、1966年に党書記長に就いた。1971年に軍部の政治介入に反対して、融和的なイノニュと対立し、翌年の党大会での書記長選挙で支持派を破ると、イノニュは党首を辞任した。1972年5月14日、エジェヴィトが共和人民党の第3代党首に就任した。1973年の総選挙で議席を増やし、1974年1月26日、宗教右派の国民救済党と連立して、首相に就任した。同年7月、キプロスで親ギリシャ派がクーデターを起こすと、軍事介入を決め、トルコ軍を派遣して島の北部を占領し、トルコ系住民を保護するとともにクーデター政権の崩壊を導いた。しかし30年以上続くキプロスの南北分断のきっかけになり、国際的な非難も浴びた。国民の人気が高まっても、連立相手との閣内不一致により、政権は10か月で終わった。

1977年6月の総選挙で共和人民党は40%以上を得票して大勝し、単独政権の首相となったが、過半数に満たず短命に終わった。1978年1月に3度目の首相に返り咲いたが、経済の混乱と左右対立の激化のなかで、支持を失っていった。1980年9月12日に軍がクーデターを起こし、エジェヴィトはデミレルらとともに逮捕され、共和人民党は解党された。政治活動を禁じられたが、1985年には夫人ラフシャンを党首とする民主左派党が結成され、1987年に禁止が解けると、1989年に同党の党首に選ばれた。1997年にユルマズ連立政権で副首相となり、1998年に組閣を命じられた。1999年の総選挙で民主左派党が550議席中136議席を得て第1党となり、再び首相に就いた。この政権はヨーロッパ連合への加盟に向けた改革に取り組んだが、記録的なインフレや金融危機に悩み、2002年11月の総選挙で大敗して退陣した。2006年5月に脳出血で倒れ、半年近い昏睡の末に死去した。

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