伝記
ケナン・エヴレンは、1917年7月17日にトルコのマニサ県アラシェヒルで生まれた軍人であり政治家である。父はアルバニア系のイスラム教の導師で、ユーゴスラビア南部のプレシェボの出身であり、母はブルガリア系のトルコ人だった。マニサやバルケシル、イスタンブールで小学校と中学校に通い、アンカラのマルテペ陸軍学校に入った。1939年に砲兵少尉に任官され、1940年に砲兵学校を卒業して、砲兵中隊の指揮官を務めた。1946年に軍事大学校に入学し、1949年に参謀将校として卒業した。1958年から翌年には、国連軍の将校として韓国に駐留した。1963年に准将、1974年に大将に昇進した。軍司令官を歴任して、1977年に陸軍総司令官となり、1978年3月に第17代参謀総長に就いた。当時の首相ビュレント・エジェヴィトは、軍の中の政治集団に属さない人物として、彼を選んだとされる。
当時のトルコでは、極右と極左の対立が激しく、大学もそれぞれの陣営に分かれた。過激な勢力が街頭で争って、治安は崩れ、国は内戦寸前だった。1980年9月6日にコンヤで行われたイスラム主義者の集会が、最後の引き金になったとされる。9月12日、エヴレンは軍を率いてクーデターを起こし、事態を収拾できなかった公正党のデミレル内閣を倒した。議会を解散し、政党活動を全面的に禁止して、主要な政治家を逮捕し、戒厳令を敷いた。軍政の最高機関として、軍首脳による「国家保安評議会」を設け、自らその議長と国家元首を兼ねた。
1982年11月7日の国民投票で、新憲法が約91%の支持を得て成立し、その規定に従って、11月9日に文民として第7代の大統領に就任した。新憲法は、参謀総長の権限強化や国家安全保障会議での軍の主導権を制度として保障し、1980年のクーデターに対する免責条項も含んでいた。軍政下では政治家の自宅軟禁や、反体制派への拷問、処刑が行われたとされ、今も欧米諸国から非難されている。1980年10月28日の軍政の声明では、クーデター後に11,500人を逮捕し、50人を処刑したと述べられた。これとは別に、60万人を超える逮捕と、広範な拷問、数十件の処刑があったともいわれる。一方で、治安を回復した功績や、アタテュルクの建国の理念への回帰を評価する国民も多い。エヴレンは、アタテュルクへの強い敬意を公言した。
1989年に任期を終えて退任した後は、エーゲ海沿岸のマルマリスに隠棲し、趣味の絵を描いて過ごした。何度か暗殺計画の対象にもなった。2006年にエジェヴィトが亡くなった際には、クーデターのとき政治家を逮捕したことを悔やむ発言をした。2007年には、政権時代のクルド人政策の誤りを認める発言をして、分離主義の宣伝の容疑で捜査されたが、中止された。2010年9月12日の国民投票による憲法改正で、エヴレンらクーデターの指導者は、免責特権を失った。数日後に市民活動家や人権活動家らが告発し、2014年6月、国家に対する罪で終身刑を言い渡された。しかし病気を理由に収監は見送られた。2015年5月9日、アンカラのトルコ軍病院で、97歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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