伝記
アラン・グラハム・マクダイアミッドは、1927年4月14日にニュージーランドのウェリントン地方のマスタートンで、5人きょうだいの一人として生まれた化学者である。貧しい家庭に育ち、世界恐慌のなかでマスタートンでの暮らしが難しくなったため、一家はウェリントン近郊のロワー・ハットに引っ越した。10歳ごろ、父の古い教科書で化学に興味を持ち、その本と図書館の本で独学した。ハットバレー高校で学び、1943年に大学入学資格を得て、ウェリントンのヴィクトリア大学に入学した。在学中は、化学教室で「実験室の雑用係」として掃除などをして学費を稼いだ。1947年に理学士号を取得し、学部の実験室で助手に任じられ、同じ大学で化学の修士課程を修めた。1949年に科学誌ネイチャーに最初の論文を発表し、これは学生時代に硫化窒素の合成を論じた修士論文の内容だった。1951年に優等で卒業した。
当時のニュージーランドでは制度の上で博士号を取れなかったため、フルブライト奨学金を得てアメリカのウィスコンシン大学に留学し、無機化学を専攻して、1952年に修士号、1953年に博士号を取得した。さらにシェル奨学金を得てケンブリッジ大学に移り、1955年に2つ目の博士号を取った。スコットランドのセント・アンドルーズ大学で1年間若手教員を務めたのち、ペンシルベニア大学に職を得て、1964年に正教授となった。ここで研究生活の大半を過ごし、最初の20年ほどはケイ素の化学を研究した。1988年に化学部のブランシャール特任教授に任じられ、2002年にはテキサス大学ダラス校の教授にもなって、同校には彼の名を冠したナノテクノロジーの研究所がある。
1970年代の中ごろからは、同じ大学で電荷移動錯体を扱う物理学者アラン・ヒーガーとともに、硫化窒素のポリマーを研究した。1975年に東京工業大学を訪ねた際、白川英樹から金属光沢を示すポリアセチレンを見せられて興味を持ち、翌年に白川をペンシルベニアに招いて、ヒーガーとともに電気伝導性を研究した。1977年に、ヨウ素の蒸気でドーピングすると導電性が飛躍的に向上することを報告した。この業績が、導電性高分子の発見と発展に対し、3人に2000年のノーベル化学賞をもたらした。白川が帰国し、ヒーガーが別の大学へ移ってからは、より安定で加工しやすいポリアニリンを研究し、化学合成から電導性の理論、デバイス化まで幅広く手がけた。導電性のプラスチックは、写真フィルムの帯電防止や光を遮る窓、発光ダイオード、太陽電池、携帯電話の表示装置に応用されている。生涯に600を超える論文と20の特許に名を連ねた。
1982年にセンテナリー賞とアーサー・K・ドーリットル賞、1984年に化学パイオニア賞、1999年にアメリカ化学会賞を受けた。2001年にはニュージーランドのラザフォード・メダルとニュージーランド勲章、2002年にはウィリアム・H・ニコルズ賞を授与された。2003年に王立協会のフェローに選ばれた。晩年は骨髄異形成症候群に苦しみ、ニュージーランドへの帰国を考えていたが、2007年2月、ペンシルベニア州ドレクセル・ヒルの自宅の階段から転落したのが元で、7日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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