伝記
マフムード・ダルウィーシュは、1941年3月13日、イギリス委任統治下のパレスチナ、西ガリラヤの村ビルワに、土地を持つアラブ人の家の子として生まれた。父はサリム、母はフーレイヤで、彼は二番目の子だった。母は読み書きができず、祖父が彼に字を教えた。1948年のナクバのとき、村はイスラエル軍に占領されて破壊され、生地を追われた一家はレバノンへ逃れて、ジェッズィーンとダームールに身を寄せた。翌年、一家はイスラエルとなった地域に戻ったが、故郷の村は徹底的に破壊されていた。一家はイスラエル側の人口調査に間に合わず、住民登録の機会を逃した。1952年のイスラエルの国籍法は国内に残ったアラブ系住民に市民権を認めたが、彼と家族に与えられたのは居住の資格だけだった。小学校以降、学校でアラビア語を使うことはできず、ヘブライ語を強いられた。
高校を出た1960年にハイファへ移り、イスラエル共産党の活動家となったが、のちに離党した。当時のアラブ知識人には共産党の支持者が珍しくなく、ユダヤ人とアラブ人の共存を唱える唯一の政党だったためである。17歳のころにはすでに、ナクバで難民となった人々の苦しみと、帰還の必然を詩にして、各地の詩の集いで朗読していた。19歳で処女詩集を出し、はじめは共産党の文芸誌に詩を発表して、のちにその編集者となった。1964年に出版した詩集『オリーブの葉』には、イスラエルに住むアラブ人の処遇に抗議する詩「身分証明書」が収められた。1965年5月1日、ナザレの映画館でこの詩を朗読すると、大きな反響があり、数日のうちにイスラエル中とアラブ世界に広まった。6連の詩は「書き留めろ、私はアラブ人だ」という叫びを繰り返す。1966年の「母に」は、非公式のパレスチナの国歌のように歌われた。
1970年にソビエト連邦に渡ってモスクワ大学に1年間学び、1971年にはカイロへ移って、日刊紙で働いた。その後レバノンに渡り、1973年にパレスチナ解放機構に加わって執行委員会の一員になった。このためイスラエル領内に帰ることはできなくなった。彼はパレスチナ独立宣言の起草者で、1988年の宣言でパレスチナ国が正式に樹立された。初期の作品は、古典的なアラビア語の韻律に従っていたが、1970年代から自由詩の手法をとり、スローガンのような言葉は、間接的な、一見政治色のない言い方へと変わった。それでも政治は常に近くにあった。生涯に30冊以上の詩集と8冊の散文集を出し、ヘブライ語や日本語を含む22の言語に訳された。ヘブライ語も堪能だった。日本では1970年代から土井大助が翻訳を始め、本人は1974年に来日している。2006年には四方田犬彦が訳した詩集『壁に描く』が出版された。
二度結婚し、二度離婚した。心臓病を患い、1984年に心臓発作を起こして、1984年と1998年に手術を受けた。心臓疾患の治療のために渡米し、手術後の合併症のため、2008年8月9日に亡くなった。最期の居住地となったラマッラーでは、アラファートに続き、パレスチナの歴史で2人目の国葬が営まれ、アッバース大統領は3日間の服喪を決めた。1969年にロータス賞、1980年に国際レーニン平和賞、2007年にストルガ詩の夕べの金冠賞を受けている。
同じ年に亡くなった人物
- アーサー・チュン (2008年没)
- フィリス・A・ホイットニー (2008年没)
- フロイド・シモンズ (2008年没)
- イヴリン・キース (2008年没)
- バリー・モース (2008年没)
同じ地域に関係する人物
- レイ・プライス (2013年没)
- サミュエル・ヒューストン (1863年没)
- ユージン・サーナン (2017年没)
- ヴァン・クライバーン (2013年没)
- ジョン・N・ガーナー (1967年没)