HISTORICAL PERSON · 2008年没

タソス・パパドプロス

キプロスの政治家。弁護士から議員となり、2003年に第5代大統領に就任した。2006年にはエジプトを訪問した。

生涯
2008年没
死亡地
キプロス(ニコシア地区 / ニコシア新総合病院)
出生地
キプロス(Ayios Antonios, Nicosia)
出典
世界地図
キプロス(ニコシア地区)

伝記

タソス・パパドプロスは、1934年1月7日にキプロスの首都ニコシアで生まれた政治家で、弁護士でもあった。正式な名はエフスタシオス・ニコラウ・パパドプロスという。両親はニコラスとアンゲリキで、三人きょうだいの長子であった。ニコシアの小学校と全キプロス・ギムナジウムで学び、法律家や裁判官が集まる父の交友関係が将来の進路に影響したとされる。その後ロンドンのキングス・カレッジで法律を学び、グレイズ・イン法曹院を通じて法廷弁護士の資格を得た。在学二年目には、のちの政治家スピロス・キプリアヌーや、のちにニコシア市長となる弁護士レロス・デメトリアデスと同居しており、二人は在英キプロス人学生の組織を設立して政治活動を始めていた。この時期の交友が、のちの政治人生の転機になったと資料は述べている。

パパドプロスは1955年3月20日にキプロスへ戻った。英国の植民地支配に対する武装闘争が始まる10日前のことである。最初は民族組織エオカに加わってニコシア地区の作戦責任者となったが、まもなく同組織の政治部門で活動するようになり、1958年、24歳で事務総長に就いた。1959年のロンドン会議にも出席し、ロンドン・チューリッヒ協定の調印に反対票を投じた代表の一人であった。キプロス共和国憲法を起草した憲法委員会では、ギリシャ系側の代表四人のうちの一人を務めた。独立後は25歳で暫定内務大臣に任じられ、続いて労働大臣となった。新内閣で最年少の閣僚であり、今もキプロス政府で最も若い大臣であるとされる。以後12年にわたり、内務、財務、労働・社会保険、保健、農業・天然資源の各大臣を歴任した。

1969年にはマカリオス支持の統一党の結成に加わり、副党首となった。1970年7月15日の選挙でニコシア選挙区から下院議員に当選したが、党首との意見の相違から離党した。1974年のクーデターではマカリオス内閣の一員であったために標的となり、ファマグスタで拘束されて投獄されたが、トルコ軍の最初の侵攻の前夜に釈放された。その後は共同体間交渉におけるギリシャ系側の初代代表クレリデスの顧問を1976年4月まで務め、以後は自らその職に就いて1978年7月まで務めた。国際労働機関の年次総会をはじめ多くの国際会議でキプロスを代表し、国連や欧州評議会への申し立てでもギリシャ系住民の立場を代弁した。1976年9月5日の選挙には無所属で出馬して再選され、同年7月22日から9月20日まで下院議長も務めた。1991年と1996年には民主党の候補として下院議員に選ばれている。

2000年10月7日、創設者キプリアヌーの退任に伴う歴史的な党大会で、無投票により民主党の党首に選ばれた。2001年5月27日の選挙でも同党の筆頭候補として再選され、欧州問題の常設委員会の委員長や、キプロスと欧州連合の合同議会委員会の共同議長などを務めた。2003年の大統領選では、現職のクレリデスよりも有利な条件でキプロス問題を解決できると訴えて立候補し、自党のほか左派の勤労人民進歩党や社会民主系の政党の支持を得て当選した。就任後は国民にアナン・プランを拒否するよう呼びかけた。2006年にはキプロスの指導者として約40年ぶりにエジプトを訪れ、ムバラク大統領と会談している。しかし代案をまとめられず、高い支持率を保ちながらも2008年の選挙で再選を果たせなかった。2008年12月12日に死去した。

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