伝記
コラソン・アキノは、1933年1月25日にタルラック州パニキで生まれたフィリピンの政治家である。生家は富裕なコファンコ家で、父ホセは同州の実業家で元下院議員、母デメトリア・スムロンは薬剤師だった。祖父メレシオはマロロス議会の議員を務め、母方のスムロン家もリサール州の有力な政治家一族であった。八人きょうだいの六番目に生まれ、マニラの聖スコラスティカ学院を首席で卒業したのち、一家の渡米にともなってフィラデルフィアやニューヨークで学び、1953年にニューヨークのマウント・セント・ヴィンセント大学をフランス語専攻で卒業した。
帰国後は極東大学で法律を学び始めたが、そこで知り合ったベニグノ・「ニノイ」・アキノ・ジュニアと1954年10月に結婚し、法学の勉強は中断した。二人の間には五人の子が生まれ、のちに第15代大統領となるベニグノ・アキノ3世もその一人である。ニノイは州知事から上院議員となったがマルコス大統領と対立し、1980年にアメリカへ亡命した。1983年8月21日、独裁打倒を掲げて帰国したニノイがマニラ国際空港で暗殺されると、妻のコラソンが反マルコスの象徴となっていった。
1985年11月、マルコスは1986年2月に繰り上げ大統領選挙を行うと突然発表した。コラソンは当初立候補に消極的だったが、百万人の署名が集まり、説得を受けて出馬を決めた。亡夫の親友で野党の実力者サルバドール・ラウレルも、当初は協力を拒んでいたものの共闘に応じた。選挙後、国民議会はマルコスの勝利を宣言したが、不正の疑いが広がり、コラソンは大規模な市民的不服従を呼びかけた。2月22日から25日にかけて、国防相エンリレや参謀長ラモスら国軍改革派が決起し、カトリック教会の支持を受けた百万の市民が通りを埋めるなか、マルコスは権力を失った。2月25日、政治経験のなかったコラソンが大統領に就任した。この政変はエドゥサ革命、またはピープル・パワー革命と呼ばれ、同年『タイム』誌のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
就任後はマルコス時代の1973年憲法を停止し、1987年2月には大統領権限を制限して市民的自由・人権・社会正義を重んじる新憲法が、76パーセントの支持で承認された。同年1月には農地改革を求める農民のデモ隊に海兵隊が発砲し、十二、三名が死亡して閣僚の辞任が相次いだが、政権は7月に包括的な農地改革プログラムを発表し、翌1988年に農地改革法が制定された。1991年には地方自治法も成立した。対外債務の260億ドルに対しては、国際信用格付けを回復するために40億ドルを完済したが、同時に追加で90億ドルを借り入れた。1986年の経済成長率は3.4パーセントのプラスだったが、一方で国軍のクーデター未遂が繰り返され、1991年6月のピナトゥボ山の大噴火も重なって経済は停滞し、同年にアメリカ軍の撤退も決まった。1992年6月に任期満了で退任し、後継には参謀総長や国防相を務めたラモスを指名した。
退任後の1999年6月から日本の三洋電機の社外取締役、のち最高顧問を務め、2007年3月末に辞任した。2008年3月に結腸癌を公表し、闘病の末、2009年8月1日に76歳で死去した。葬儀は世界的に報じられ、2010年発行の新500ペソ紙幣には夫のニノイとともに肖像が使われている。
同じ年に亡くなった人物
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