HISTORICAL PERSON · 363年没

Basil of Ancyra

4世紀のガラティア、アンキラの司祭で聖人。異教徒やアリウス派の教えと戦い、司教マルケルスを擁護した。背教者ユリアヌスの迫害で逮捕・拷問され、362年に処刑された。西方と東方で殉教者として記念される。

生涯
363年没
死亡地
トルコ共和国(アンカラ県 / Ancyra)
出生地
トルコ共和国(ガラティア)
出典
世界地図
トルコ共和国(アンカラ県)

伝記

アンキラのバシレイオスは、4世紀にガラティアのアンキラ(現在のトルコのアンカラ)で活動したキリスト教の司祭・司教で、殉教者として聖人に数えられる。もとは医者であったとされ、異教の教えとアリウス派の教えに対して戦った。生涯についてはほとんど伝わらず、「殉教司祭バシレイオスの生涯と事績」と題する聖人伝が、わずかにその事績を伝えるにとどまる。

アンキラの司教マルケルスが、336年にアリウス派のニコメディアのエウセビオスによって罷免されると、バシレイオスがその後任に就いたとされる。教皇ユリウス1世によって340年にマルケルスの無実が認められ、348年にマルケルスが復位したが、のちに再び罷免され、バシレイオスは353年に二度目の後任となった。別の記述では、347年に退けられ、サルディカの公会議で破門されたが、皇帝コンスタンティウス2世の支持を得て復職したともいわれる。彼は半アリウス派(ホモイウシオス派)の主要な指導者の一人で、アンキラの教会会議を主宰し、三位一体をめぐるサベリウス派の見解や、子と父の類似を全面的に否定する最も急進的なアリウス派の立場までも断罪したという。359年のセレウキアの公会議では、ホモイウシオス派の司教たちを率いた。この会議は、アリウス派と両立する新しい信条を採用させようとした皇帝コンスタンティウス2世の望みに反して、ニケア信条を支持した。まもなくコンスタンティノポリスの教会会議で罷免され、360年にイリュリアへ追放された。ヒエロニムスの『著名者列伝』によれば、『マルケルス駁論』という著作もあった。ほかに、書簡や、『童貞について』と題する書物が、教父著作目録に挙げられている。

背教者ユリアヌス帝の時代のキリスト教徒への迫害に巻き込まれ、バシレイオスは逮捕された。伝承によれば、皇帝がアンキラを訪れていたとき、彼は勇敢にも自ら皇帝のもとへ行き、公然と信仰を告白して、ローマの祭礼の慣習に反対する説教をした。進行中の犠牲の儀式を祈りによって公然と退けたため、ただちに捕らえられ、拷問を受けたという。背中の皮が剥ぎ取られ、焼けた鉄によって処刑された。死は362年6月の26日、28日、あるいは29日とされ、日付には異説がある。一方、別の記述では、ヨウィアヌスが帝位に就くと、彼は自身と、ほかの罷免された司教たちの復職を求めたが、まもなく世を去り、まだ追放の身であったらしいともいわれる。

殉教者としては、西方でも東方でも3月22日に記念される。ただし、司祭ではない同名の別のアンキラのバシレイオスが1月1日に記念されており、しばしば混同される。ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』にも、二度その名が言及されている。

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