伝記
苻堅は、五胡十六国時代の前秦の第3代君主である。咸康4年(338年)に生まれ、建元21年(385年)に没した。字は永固、幼名は堅頭。元の姓は蒲で、のちに苻と改めた。略陽郡臨渭県を本貫とする氐族で、出生地は魏郡鄴県である。父は苻雄、母は苟氏。宰相の王猛を重用して前燕・前涼・代・前仇池を滅ぼし、五胡十六国時代で唯一となる華北統一を成し遂げた。しかし東晋征伐では淝水の戦いで大敗し、統治下の諸部族の反乱・自立を招いて前秦は衰退、志半ばで世を去った。
祖父の苻洪は略陽郡の氐族の酋長で、328年に後趙に帰順し、一族は都の鄴に移り住んでいた。349年5月に苻洪が後趙から離反して枋頭を拠点とした時、苻堅ら一族は鄴に取り残されたが、同年12月、伯父の苻健に従って脱出し、枋頭で苻洪と合流した。350年、苻洪は三秦王などを自称して姓を蒲から苻に改め、苻堅ら一族も倣った。苻洪の没後は苻健が継いで長安を都とし、351年1月に天王・大単于となって国号を大秦と定めた(前秦の建国)。この時、苻堅は龍驤将軍に任じられた。354年に父が病没すると東海王を継ぎ、呂婆楼・強汪・梁平老ら「王佐の才」と評された重臣と交わって朋党を結んだ。
355年に苻健が没して三男の苻生が即位した。357年4月、羌族の酋長姚襄が杏城まで進出して関中を窺うと、苻堅は苻生の命で苻黄眉・苻道・鄧羌とともに歩騎1万5千を率いて討伐に向かった。5月、鄧羌が騎兵3千で挑発して偽装退却し、姚襄を三原まで引き出したところで反転突撃し、苻堅らも大軍で攻めて姚襄を大敗させ、その首を挙げた。弟の姚萇は降伏し、旧臣の薛讃・権翼も前秦に仕え、苻堅は彼らを朋党に引き入れた。
苻生は残忍で、酒に耽っては官吏や女官を殺し続け、殺された者は1000をはるかに超えたといわれる。苻堅自身も幾度も害されそうになったが、左衛将軍李威の取りなしで難を免れた。薛讃・権翼や梁平老らは早く計を立てるよう勧めたが、苻堅は苻生の勇猛と素早さを警戒して実行できずにいた。ある夜、苻生が兄の苻法の兄弟も信用できないので除こうと侍婢に漏らし、侍婢がこれを苻法に密告した。苻法は先んじて壮士数百と雲龍門から宮殿に突入し、苻堅も呂婆楼とともに数百の兵で呼応した。宮中の将兵は武器を捨てて従い、まだ酔って眠っていた苻生は越王に降格されたうえで殺された。
群臣は苻堅に即位を求めたが、苻堅は民心が服していないことを憂えて難色を示し、もとは兄の苻法に即位を勧めたが、苻法も固辞したという。母の苟氏が涙ながらに群臣へ手を回すよう請い、苻堅は位を継いだ。ただし皇帝号は用いず、大秦天王と称して永興と改元した。王猛を中書侍郎に任じ、苻生の側近20人余りを誅殺し、苻生に誅されていた旧臣を復職させて礼をもって改葬した。同年11月、苻法の人望を恐れた苟氏は李威と謀って苻法に死を賜い、苻堅は遺体と対面して慟哭のあまり吐血したという。359年、王猛は横暴を重ねた特進の強徳を苻堅の命を待たず処刑し、苻堅は罰しなかった。王猛は御史中丞となった鄧羌とともに数十日で綱紀を正し、苻堅は天下に法があり天子が尊いことを初めて真に理解したと感嘆した。以後、王猛への寵愛は日に日に篤くなり、朝政で王猛が関与しないものはなくなっていった。即位後の苻堅は、官職の統廃合、絶えた家の再興、祭祀、農耕・養蚕の奨励、学校の設立にも力を注いだ。