伝記
元帝(劉奭)は、前漢の第11代皇帝である。紀元前75年に生まれ、前33年7月に没した。在位は前48年から前33年とされ(日本語の記述では前49年の即位)、儒教を重んじた政治で知られる。父は後に宣帝となる劉病已、母は許平君である。
劉病已は武帝のひ孫だが、祖父の劉拠が武帝の猜疑に追われて反乱を起こして失敗し、一族が処刑されたため、幼くして庶民となっていた。宦官の張賀は祖父の劉拠に仕えた人物で、劉病已を援助した。張賀は、孫娘を劉病已に嫁がせようとしたが、弟で重臣の張安世に災いを招くと反対されたため、代わりに部下の宦官の許広漢を説得してその娘の許平君を劉病已に嫁がせ、婚礼の費用や結納も負担したとされる。結婚後、劉病已は妻の実家に頼って暮らした。劉奭が生まれて1年にも満たないころ、昭帝が亡くなり、実権を握る霍光は選んだ昌邑王を廃して劉病已を帝位に迎えた。これが宣帝で、許平君は皇后となった。
しかし霍光の妻の顕は、自分の娘の霍成君を皇后にしようとし、前71年、出産直後の許皇后を女医の淳于衍に毒殺させた。前70年4月、霍成君が皇后となり、宮殿の支出は許皇后をはるかに上回る贅沢なものだったという。母を失った劉奭は、前67年、8歳で皇太子に立てられ、祖父の許広漢は平恩侯に封じられた。霍氏はこれに反発し、霍皇后が太子の暗殺を何度も試みたが失敗したと伝えられる。前66年、霍氏の一族は皇帝を廃する陰謀を企てたが発覚し、宣帝によって一族は処刑された。皇后の霍氏は廃されたが死は免れ、のちに流刑にされると決まって自殺した。この事件は、太子暗殺未遂と許皇后の死とともに、宣帝が霍氏を粛清する一因となった。
劉奭は、亡くした側室の司馬良娣をしのんで嘆き悲しんだり、儒教に傾倒したりする、理想主義で叙情的な性格であった。法家を重んじる現実的な宣帝は、「わが家を乱すのは太子ならんか」と統治能力を危ぶみ、後継ぎが生まれないことも理由に、丞相の黄覇に次男の淮陽王劉欽への交代を諮った。だが宣帝は、霍氏に殺された糟糠の妻の忘れ形見という思いを持っていた。さらに中常侍の許嘉と継母の王皇后の働きかけ、王政君との間の劉驁(後の成帝)の誕生もあって、廃太子には至らなかった。
即位すると、元帝は儒教を重視する政策をとり、皇太子時代の師である蕭望之ら儒者を登用した。しかし前46年、宣帝の代から側近だった宦官の弘恭、石顕と対立した蕭望之らは失脚し、以後の治世は宦官に専断された。匈奴が統一されて西方の脅威が薄れると内政に目を向け、厳しい刑法を改め、税を軽くし、大規模な宴会を禁じ、狩猟用の別荘や御料地、宗廟の祭祀の経費を削った。一方で、理想論に基づき専売制を廃止したため財政は悪化し、問題の根本的な解決には至らなかった。宣帝が立て直した国勢は再び衰え、皇后の王氏の一族から出た王莽が簒奪する要因をつくったとされる。後漢の班彪は、その治世を「優柔不断にして宣の業衰えぬ」と評した。前33年に崩御し、劉驁が成帝として即位した。家族では、正室の王政君は王莽の父の姉にあたり、その子が成帝である。側室の傅昭儀の子の劉康は哀帝の父、側室の馮媛の子の劉興は平帝の父となった。後漢の光武帝は景帝の子孫だが、即位後は自らを元帝の養子とし、宗廟に元帝とその祖先を祀った。元帝は、中国のテレビドラマ『王妃 王昭君』(2007年)や『雲中歌』(2013年)などの作品にも登場する。