HISTORICAL PERSON · 2012年没

ノロドム・シハヌーク

カンボジアの国王、政治家。1941年から1955年と、1993年から2004年の二度にわたり国王を務めた。

生涯
2012年没
死亡地
中華人民共和国(北京市)
出生地
カンボジア王国(プノンペン)
出典
世界地図
中華人民共和国(北京市)

伝記

ノロドム・シハヌークは、1922年10月31日、当時フランス領インドシナの一部だったカンボジアのプノンペンで、王族のノロドム・スラマリットとシソワット・コサマック妃の子として生まれた。ノロドム家とシソワット家の両方の血を引き、両家の祖である二人の王の曾孫にあたる。1941年、サイゴンに留学中に祖父シソワット・モニヴォン国王が崩御し、請われて帰国して、18歳で即位した。王位継承をめぐって両家が争ったが、フランス領インドシナ総督の裁定でシハヌークの即位が決まった。若いため宗主国フランスの意向に沿うだろうという思惑があったと見られている。

1945年3月、日本軍がフランス軍を駆逐してインドシナ政府を解体すると、隣国ベトナムやラオスと前後してカンボジアの独立を宣言した。8月15日に日本が敗れると、ベトミンの侵略を恐れて、制限つきでフランスの復帰を認め、米国をはじめとする諸国を訪ねて、独立を国際世論に訴えた。1949年にフランス連合内での独立が認められたが、警察権と軍事権はフランスに残ったため、満足せず、完全独立までプノンペンに戻らないと宣言して離宮に籠もった。国内でも都市部を中心に反仏デモが盛り上がり、1953年4月にはフランスからの帰途に日本を訪れて昭和天皇に会った。ついにフランスが完全独立を認め、1953年11月9日に新生カンボジア王国が発足し、凱旋した彼は「独立の父」として尊敬を集めた。

1955年3月に退位して父を即位させ、同年4月に政治団体「社会主義人民共同体(サンクム)」を結成して総裁となった。サンクムは総選挙で圧勝して国会の全議席を制し、彼は首相兼外相に就いた。同年11月には国賓として日本を訪れ、勲一等旭日大綬章を受けた。1960年に父王が崩御すると王位を空位とし、新設の国家元首に就いて政治を導いた。その政策は「王制社会主義」と呼ばれ、仏教の保護と君主制のもとで社会主義的な政策を進め、外交では非同盟の中立を守って東西両陣営から援助を引き出した。隣国が戦火に巻き込まれるなか国内は平和を保ったが、左派と右派の対立は絶えず、シハヌークが左派の重用と弾圧を繰り返したため、ポル・ポトやイエン・サリ、キュー・サムファンらは密林に逃れて武力闘争に走った。

1970年3月、ロン・ノル将軍らが軍事クーデターを起こした。議会は外遊中のシハヌークの解任と王制廃止を議決し、国名は「クメール共和国」となった。追放された彼は北京に留まり、亡命政権を結成してロン・ノル政権の打倒を訴えた。ポル・ポト派を以前に弾圧して嫌っていたが、毛沢東や金日成の説得で手を結び、農村部で支持者を増やすことに貢献した。1975年4月にクメール・ルージュが全土を制圧すると、国家元首として帰国したが、実権はなく、王宮に幽閉同然となった。国内に残っていた家族は地方に追放され、5人の子と14人の孫が虐殺されたという。1976年4月に国家元首の辞任が認められた。1979年1月にベトナム軍がプノンペンに入ると、国連で訴えるためと出国し、ニューヨークで脱出して、再び中国に亡命した。1981年9月には反ベトナム三派の民主カンプチア連合政府を結成した。1992年に国連が平和維持活動を始めたのち、1993年9月24日に国王に復位し、2004年10月7日まで在位した。2012年10月15日に没した。

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