伝記
鄭和は、1371年に雲南の昆陽州宝山郷(現在の雲南省昆明市晋寧区)でムスリムの次男として生まれた。本姓は馬、初名は三保で、姓の「馬」は預言者ムハンマドの子孫を示すサイイドであることに由来する。父は滇陽侯で、元の雲南平章政事を務めたサイイド・アジャッル(賽典赤)の来孫にあたる。10歳だった1381年、明が雲南攻略の軍を起こし、翌年に梁王国が滅んだ。父を殺された三保は捕らえられて去勢され、1383年ごろ、12歳で燕王朱棣(後の永楽帝)に宦官として献上された。
洪武帝の没後の靖難の変で三保は功績を挙げ、建文帝から帝位を奪った朱棣(永楽帝)から宦官の最高職に任じられた。1404年には鄭の姓を賜り、以後は鄭和と名乗った。明は洪武4年に海禁令を出して民間の通商を禁じていたが、永楽帝は帝位を奪った悪名の埋め合わせもあって周辺諸国へ積極的に使節を送り、大船団を南海諸国へ派遣して朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上した。動機には、建文帝の捜索説やティムール朝への警戒説などがあるが、いずれも主目的とするには疑問が残るとされる。ほかに、簒奪によって帝位に就いた永楽帝が、多くの朝貢を受け入れる聖王を演出して継承を正当化しようとしたとの説もある。
1405年、34歳の鄭和は諸国への航海と船団の指揮を命じられ、その年末に第1次航海へ出発した。『明史』によれば全長42丈(約131m)余の大船62隻、乗組員は2万7800名余りの大艦隊だった。船団は蘇州府太倉州から出発し、翌1407年初めにコーリコードへ到達した。マジャパヒトでは宮廷が東西に分かれた内戦に巻き込まれ、東王宮にいた部下が死亡したため、鄭和は西王宮に賠償金の支払いを約束させた。パレンバンでは華僑の勢力争いに巻き込まれ、鄭和艦隊を攻撃した陳祖義が大敗して南京へ連行され、斬首された。この航海で東南アジア諸国が続々と明へ朝貢し、なかでも建国間もないマラッカ王国は力を蓄え、後に東西貿易の中継港として発展した。マラッカは艦隊が来るたびに朝貢し、北のアユタヤの南進を阻んだ。第2次航海では分隊がアユタヤも訪れ、帰路の途中でセイロン島のガレに漢文・タミル語・ペルシア語の3言語の石碑を建てた。第3次航海の帰路、セイロンでガンポラ王が宝を奪おうと攻撃してきたため鄭和は反撃し、ヴィジャヤバーフ6世とその家族を捕らえて明へ連れ帰った。
第4次航海は帰着から1年半後に行われ、出発前に鄭和は故郷の昆陽で祖先の祭祀を行い、西安でペルシア人の通訳を雇った。艦隊の参加人員は、どの航海でもほぼ2万7000人前後だった。本隊がホルムズまで進み、分遣隊はモルディブを経てアフリカ東岸のモガディシオやマリンディ(現在のケニア)に達し、アデンなどを経由してホルムズに戻った。帰路のサムドラ・パサイでは、王位を簒奪した反逆者セカンダルを捕らえ、王ザイン・アル=アビディンに王位を取り戻させた。この航海以降、中国商人はホルムズを拠点にインド洋西海域へ進出した。第5次航海では各国の使節を送り届け、ダチョウやシマウマなどの珍獣を連れ帰り、アデンから贈られたキリンは麒麟として永楽帝を喜ばせた。鄭和は1434年ごろに没したとされる。2006年9月には南京で全長63.25mの宝船が復元された。
同じ年に亡くなった人物
- ベルンハルト1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1434年没)
- ジャン1世 (ブルボン公) (1434年没)
- マルガレーテ・フォン・デア・プファルツ (1434年没)
- マリー・ド・ベリー (1434年没)
- ルイ3世・ダンジュー (1434年没)