伝記
ナディン・ゴーディマーは、1923年11月20日に、ヨハネスブルグ近郊の鉱山町スプリングズで生まれた南アフリカの作家であり、政治活動家である。父イシドールはリトアニアから来たユダヤ系の時計職人の移民で、母ハンナはロンドンから来たイギリス系のユダヤ人だった。世俗的な家庭で育ち、父は地元の正統派のシナゴーグに籍を置いて、年に一度、贖罪の日の礼拝に出席するだけだったという。父はロシア帝政下の難民としての経験が娘の政治意識の形成に影響したが、活動家ではなく、アパルトヘイト下の黒人の経験にも特に同情的ではなかった。これに対し母は、黒人の貧困と差別を案じて、黒人の子供のための託児所を設立するほどだった。10代のころには、警察が自宅を捜索し、使用人の部屋から手紙や日記を押収する場面も目撃している。
修道院付属の学校で教育を受けたが、母が心臓が弱いのではないかと案じたこともあり、11歳のころに学校をやめ、ほとんど家にいて過ごした。孤独な幼少期のなかで早くから書き始め、1937年、13歳のときに子供向けの短編が新聞に載った。16歳のときには、大人向けの小説が初めて雑誌に掲載された。20歳になってヨハネスブルグのウィットウォーターズランド大学に1年間通ったが、学位は取らなかった。この大学で初めて、肌の色の垣根を越えた同世代の人々と交わり、ソフィアタウンの文化的な盛り上がりにも関わった。1948年からはヨハネスブルグに移り、生涯そこで暮らした。
25歳のときに短編集『顔と顔を合わせて』で本格的に世に出た。1951年には、短編が「ニューヨーカー」誌に採用されて長い付き合いが始まり、作品がはるかに多くの読者の目に触れるようになった。短編こそ現代にふさわしい文学の形式だと考えていたという。最初の長編小説は『いつわりの日々』(1953年)で、その後、12作の長編小説と200以上の短編を発表した。道徳と人種の問題、とりわけ南アフリカのアパルトヘイトを描き、アパルトヘイトの欺瞞を淡々とした筆致で描く作風で知られた。アパルトヘイト体制下で、『バーガーの娘』のように発禁になった作品もある。1960年に親友ベティ・デュ・トワが逮捕され、シャープビルの虐殺が起きたことが、反アパルトヘイト運動に加わる契機となったという。非合法だったアフリカ民族会議にも加わった。ネルソン・マンデラの裁判では弁護団と親しく交わり、マンデラの有名な法廷での演説の作成を助けたとされる。1990年にマンデラが釈放されたとき、最初に会いたいと望んだ人々のなかに彼女がいた。
1961年に最初の大きな文学賞を受け、1974年には『保護管理人』でブッカー賞を受賞した。1973年には、スウェーデン・アカデミーの選考委員からノーベル文学賞に推薦されている。1991年、作家活動を通じてアパルトヘイト法の廃止に貢献した功績が評価されて、ノーベル文学賞を受賞した。ウォーレ・ショインカ、ナギーブ・マフフーズに次いでアフリカ大陸出身者として3人目、アフリカ人女性としては初の受賞者だった。のちにはエイズ問題にも積極的に取り組んだ。2014年7月13日、ヨハネスブルグの自宅で死去した。
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