HISTORICAL PERSON · 2018年没

ウィニー・マンデラ

南アフリカの女性活動家で、後に大統領となるネルソン・マンデラの2番目の妻。国母と評価される一方、発言には議論もあった。

生涯
2018年没
死亡地
南アフリカ共和国(ハウテン州 / ヨハネスブルグ)
出生地
南アフリカ共和国(ビザナ)
出典
世界地図
南アフリカ共和国(ハウテン州)

伝記

ウィニー・マンデラは、1936年9月26日に南アフリカのトランスカイ地方のビザナ近くの村で生まれた活動家、政治家である。コサ語の名はノムザモで、「試練」を意味する。9人きょうだいの5番目で、7人の姉妹と1人の兄弟がいた。両親はともに教師で、父は歴史の教師で校長、母は家政科の教師だった。ビザナの高校では首席の女子生徒を務めた。学校を出るとヨハネスブルグに出てソーシャルワークを学び、1956年に資格を得た。最初の仕事は、ソウェトの病院のソーシャルワーカーで、のちにトランスカイでも職を得た。数十年後には、ウィットウォーターズランド大学で国際関係論の学士号も取得している。

1957年、22歳のとき、ソウェトのバス停にいたところを、弁護士で反アパルトヘイトの活動家ネルソン・マンデラに見初められた。マンデラには、1944年に結婚した妻エブリンがいたが、その後離婚した。二人は1958年に結婚し、1959年に娘ゼナニ、1960年に娘ジンジが生まれた。1960年3月のシャープビルの虐殺のあと、政府は非常事態を宣言し、非暴力を貫いてきたアフリカ民族会議を非合法にした。夫は1961年から軍事組織で非合法活動に専念し、1962年8月に逮捕され、1964年6月に終身刑が確定した。夫の収監の間、彼女は面会を続け、夫の顔として知られるようになり、国内の反アパルトヘイト運動の中で頭角を現した。1969年初めからの18か月、反テロリズム法や共産主義禁止法に違反した容疑で拘禁された。治安当局に何度も拘束され、拷問や行動を制限する命令を受け、僻地の町に追放され、数か月は独房に入れられた。1978年にはソウェト蜂起を扇動した容疑で逮捕されたが、無罪を勝ちとった。

1980年代半ばには、ソウェトで「恐怖の支配」を敷いたとされ、反アパルトヘイト運動の内外から非難を受けた。1985年4月の演説で、黒人の裏切り者に対するタイヤネックレスと呼ばれる私刑を当然視するような発言をして批判された。1988年12月、彼女が主宰していたサッカークラブのメンバーが、ソウェトの14歳の少年ジェイムズ・セイペイを誘拐して殺害する事件が起き、彼女の関与が取りざたされた。1991年6月、裁判所は誘拐の関与を認めて懲役6年の判決を下したが、執行は停止された。のちに真実和解委員会は、クラブが起こした重大な人権侵害について、政治的にも道徳的にも責任があると認めた。

1990年2月11日にマンデラが釈放され、彼女もテレビに映って注目を集めた。1992年に夫婦は別居を発表し、1996年3月に正式に離婚した。1993年12月にアフリカ民族会議女性同盟の議長に選ばれ、1994年から2003年まで国会議員を務め、1994年から1996年には芸術・文化の副大臣も務めた。支持者からは「国母」と呼ばれた。2003年4月、女性同盟の議長時代の公金流用で、詐欺と窃盗罪の有罪判決を受け、公的なポストを辞した。2007年に党の執行委員に返り咲き、2009年に再び国会議員となった。2018年4月2日、ヨハネスブルグで死去した。

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