伝記
ダヴィデ・アストーリは、1987年1月7日にイタリア・ロンバルディア州のサン・ジョヴァンニ・ビアンコで生まれたサッカー選手である。ベルガモ県で育ち、地元のポンティソーラでサッカーを始めたのち、2001年にACミランへ加わって5年間をユース組織で過ごした。後年、この時期を「サン・ジョヴァンニ・ビアンコの出身だから、それだけで冒険だった」と振り返っている。ポジションは左利きのセンターバックである。
プロとしての出発は、ミランからのレンタルで入ったセリエC1のピッツィゲットーネだった。チームはセリエC2に降格したが、準レギュラーとして出場した。翌シーズンは同じくセリエC1のクレモネーゼへ貸し出された。2008年にはカリアリへ移り、2008年9月14日のシエナ戦で途中出場してセリエAデビューを果たした。1年目は出場機会が限られたが、2009-10シーズンにはディエゴ・ロペスに代わって定位置をつかみ、2010年1月31日のフィオレンティーナ戦で初ゴールを挙げた。フェデリコ・マルケッティ、ミケーレ・カニーニらとDFラインを組み、古巣ミランへの復帰もささやかれたが、実現しなかった。2011年6月22日、カリアリはミランから残りの保有権を買い取り、完全移籍となった。
2014年7月25日、買い取りオプション付きのレンタルでASローマへ移り、ツェスカ・モスクワ戦で欧州カップ戦デビューを飾った。24試合に出場したものの完全移籍には至らず、2015年8月4日に買取義務付きのレンタルでフィオレンティーナへ移籍した。2016年に完全移籍し、2017年にはチームの主将を任された。最後のシーズンは25試合に出場して1得点を記録している。生前最後の試合となった2018年2月25日のキエーヴォ戦では、クリスティアーノ・ビラーギの決勝ゴールをアシストした。
イタリア代表ではU-18で4試合に出場した。チェーザレ・プランデッリ監督の初陣となった2010年8月10日のコートジボワール戦でA代表に初招集され、2011年3月29日のウクライナ戦で途中出場してデビューしたが、イエローカードを2枚受けて退場となった。2013年6月30日、コンフェデレーションズカップ3位決定戦のウルグアイ戦で代表初ゴールを決め、チームは3位に入った。代表での出場は通算14試合で、2017年11月のスウェーデンとのワールドカップ予選プレーオフにも招集されていた。
2018年3月4日、ウディネーゼ戦のために滞在していたウーディネのホテルで就寝中に急死した。心臓発作とみられている。この日のセリエAは7試合すべてが延期され、フィレンツェ市長は市全体で喪に服すと表明した。背番号13はフィオレンティーナとカリアリで永久欠番となり、葬儀は3月8日にサンタ・クローチェ教会で営まれ、クロアチア代表のミラン・バデリが弔辞を読んだ。死後最初の本拠地戦となった3月12日のベネヴェント戦では、背番号にちなんで開始13分に試合が一時中断され、両チームの選手と審判団が肩を組んで黙祷を捧げた。クラブの練習場は「スポーツセンター・ダヴィデ・アストーリ」と改称され、イタリアサッカー協会もフェアプレー賞を「プレミオ・ダヴィデ・アストーリ」と改めた。2018-19シーズンからセリエAでは統一デザインのキャプテンマークが使われるようになったが、彼のイニシャルと背番号13が入ったものを使っていたフィオレンティーナだけは特例とされた。妻との間には2016年に娘が生まれており、ピッチの内外で人格者として知られていた。
同じ年に亡くなった人物
- フィリップ・ボスコ (2018年没)
- ホセ・アントニオ・アブレウ (2018年没)
- シャルル・アズナヴール (2018年没)
- ウィリー・ナオルス (2018年没)
- セルゲイ・リトビノフ (2018年没)
同じ地域に関係する人物
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- エリザ・ボナパルト (1820年没)
- ウルリヒ3世 (ケルンテン公) (1269年没)