伝記
モーガン・リチャード・ツァンギライは、1952年3月10日に当時の南ローデシアのブヘラ地方(ハラレの南東約220キロ)で生まれたジンバブエの政治家である。カランガ系ショナ人の両親のもとで9人きょうだいの長男として育ち、父は農民、鉱山労働者、大工、れんが職人などを務めた人物だった。ゴコメレ高校を修了し、1972年4月に最初の仕事としてムタレの織物工場で見習い織工となった。1974年にはアングロ・アメリカン社のビンドゥラのニッケル鉱山に見習いとして就職し、10年間をそこで過ごして、プラントの作業員から現場監督にまで昇進した。1978年にスーザンと結婚し、6人の子をもうけた。
1980年にジンバブエが独立すると、28歳だった彼は、ロバート・ムガベが率いる与党のジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線に入党した。当初はムガベの熱心な支持者で、党内で急速に昇進したと伝えられる。同時に労働組合運動でも頭角を現し、鉱山労働者組合の執行部に選ばれ、1989年にはジンバブエ労働組合会議の事務総長に就いた。しかし、彼が組織を与党から離れる方向へ導き、その力が強まるにつれて、政府との関係は悪化していった。
1999年、彼は民主変革運動(MDC)を結党した。白人農場主や、ムガベ政権に反対する黒人からの支持を集めた野党である。結党当初の議席はわずか3だったが、大統領の権限を強める憲法改訂に反対する運動を進め、2000年2月の国民投票では反対票が過半数となって改訂案は否決された。同年6月の議会選挙では、与党に匹敵する勢いで57議席を得て、与党の62議席に迫った。ところが2000年8月から白人所有の大農場の強制収用が始まり、MDCにも弾圧が及ぶようになり、10月にはツァンギライ自身が逮捕された。2002年3月に初めて大統領選挙に出馬したが、ムガベに敗れた。2003年6月の反政府デモでも、2007年3月にハラレで教会組織の祈りの集会を警察が襲撃した際にも逮捕され、後者では警察から激しい暴行を受けて負傷している。2005年にはMDCがツァンギライ派とムタンバラ派に分裂した。
2008年の大統領選挙では、第1回投票の公式結果でムガベを上回る47.8%の票を得た。しかし、支持者への暴力や威嚇で約200人が死亡したとして、決選投票の直前に撤退した。同年9月に連立政権の樹立で合意し、軍と警察を担当する閣僚の人事をめぐる対立では譲歩する形となって、2009年2月11日に首相に就任した。2月13日には各閣僚も就任して新政権が発足し、閣僚は与党から15人、ツァンギライ派から13人、ムタンバラ派から3人が選ばれた。2009年3月6日、ブヘラへ向かう途中でトラックと正面衝突し、本人は軽傷で済んだが、妻のスーザンが死亡した。党関係者からは意図的な事故ではないかとの声も上がった。連立は、ムガベが独裁体制を維持し続けたために機能不全に陥ったとされる。2012年9月15日にはエリザベス・マチェカと再婚した。
2013年7月31日の大統領選挙では得票率が約34%にとどまり、現職のムガベに敗れたが、選挙に不正があったと主張した。首相は同年9月11日に退任している。2017年にジンバブエで軍による政変が起きると、ムガベに退陣を求めた。2018年2月14日、南アフリカ共和国のヨハネスブルグの病院で、大腸癌のため65歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- マウラナ・ファズルッラー (2018年没)
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