HISTORICAL PERSON · 1994年没

ケビン・カーター

南アフリカの報道写真家。餓死寸前の少女を狙うハゲワシを写した写真でピューリッツァー賞を受賞。論争が起きた約2か月後に自殺した。

生涯
1994年没
死亡地
南アフリカ共和国(ハウテン州 / ヨハネスブルグ)
出生地
南アフリカ共和国(ヨハネスブルグ)
出典
世界地図
南アフリカ共和国(ハウテン州)

伝記

ケビン・カーターは、1960年9月13日に南アフリカ共和国のヨハネスブルグの白人居住区で、イギリスから移民してきた中流家庭に生まれた報道写真家である。幼いころ、同区に入り込んだ黒人が警察に逮捕されるのをしばしば目にして育ち、隣人愛を説くクリスチャンで「リベラル」なはずの両親の世代がアパルトヘイトを許容していることに疑問を持った。両親との衝突も多く、親しい友人には不幸な子供時代だったと話していたという。1976年にプレトリアの寄宿高校を卒業して薬剤師を目指したが挫折し、南アフリカ防衛軍に入った。1980年、軍の食堂で黒人のウエイターを擁護して同僚に殴られたのを機に軍を離れ、ラジオのディスクジョッキーとして再出発しようとしたが、うまくいかなかった。鬱状態になって大量の睡眠薬などを飲み、自殺を図ったが一命を取り留めた。

軍に戻った1983年5月20日、任務に就いていたプレトリアの軍施設前で車が爆発する事件が起こり、被害者の救助を手伝った。反アパルトヘイトを訴えるアフリカ民族会議による爆破事件だと分かり、これをきっかけに歴史を記録するフォトジャーナリストを志した。写真用品店で働きながら、週末だけ『ヨハネスブルグ・サンデー・エクスプレス』紙のスポーツ・カメラマンを務め、まもなくいくつかの新聞で働くようになった。1990年には反アパルトヘイト系新聞『ウィークリー・メール』の主任報道写真家となり、ネルソン・マンデラ支持派とズールー民族を中心とする勢力との激しい闘争を伝えた。同僚の写真家たちと組んで取材し、地元紙の記者に「バンバン・クラブ」と呼ばれたが、危険のストレスから逃れるために、彼らは常習的にマリファナを吸い、やがて非合法の薬物にも手を出したという。

1993年2月、カーターは『ウィークリー・メール』から休暇をもらい、同じ写真家のジョアン・シルバとスーダンに入った。当時のスーダンは、1983年から続く内戦と干ばつのため、子供たちを中心に深刻な飢餓に見舞われていた。食料配給所のあるアヨドの村では、飢えや伝染病で1日に10人から15人の子供が死んでいた。カーターは村を離れようとしたところで、うずくまった少女をハゲワシが狙う場面に遭遇し、写真を撮った。撮影後はハゲワシを追い払い、少女は国連の食糧配給センターの方へ歩きだしたという。1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載された写真は世界中に配信され、同紙には絶賛とともに、なぜ少女を助けなかったのかという批判が多く寄せられた。やがて「報道か人命か」を問う論争に発展した。カーターは念願のフリーランスとなり、ロイターの契約カメラマンになった。

翌1994年、この写真でピューリッツァー賞を受賞し、5月の授賞式に出席してヨハネスブルグの両親に喜びの手紙を書いた。しかし賞賛と批判が渦巻くなか、バンバン・クラブの仲間が取材中に殉職し、もう一人が重傷を負ったことで激しく落ち込み、薬物の量が増えていった。取材の飛行機に乗り遅れるといった失態も続いた。1994年7月、ヨハネスブルグ郊外に停めた車の中に排気ガスを引き込み、自殺した。33歳だった。遺書には、鬱と金に悩んでいたことや、取材で見聞きした悲惨な光景に苦しんでいたことなどが書かれていたという。

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