伝記
エウラリウスは、ローマ教皇ボニファティウス1世に対立した対立教皇である。生まれは4世紀後半とみられ、423年に没した。第41代教皇ゾシムスのもとで助祭長を務め、418年12月から419年にかけて、教皇位をめぐる分裂の一方の当事者となった。その生涯は、この分裂を記した書簡集『アヴェッラ文書』と、『教皇の書』のいくつかの記述から知られる。
418年12月26日にゾシムスが死去すると、都市長官のシンマクスは、民衆に騒ぎを起こさず新たな選挙に進むよう命じた。しかし葬儀の日のうちにエウラリウスの支持者はラテラノ大聖堂を占拠し、助祭の大部分と少数の司祭、群衆を伴って到着したエウラリウスが、ローマの司教に選ばれた。叙階は日曜日に行うのが慣例だったため、一行は12月29日まで大聖堂にこもり、その日にエウラリウスは聖別された。
ところが、選出の翌日に、司祭たちの多数派が、先代教皇インノケンティウスの顧問を務めたボニファティウスを選び、ボニファティウスも同じ12月29日にマルケルス教会で聖別された。長官シンマクスは、先に正しい手順で選ばれたエウラリウスが正当だと皇帝ホノリウスに報告し、皇帝は419年1月3日にこれを認めてボニファティウスの追放を命じた。顕現祭の行列をめぐって騒動が起き、ボニファティウスの支持者は城外の聖パウロ教会にとどまった。しかしその支持者たちは、エウラリウスが司祭の意見を聞かず、オスティア司教の老衰を利用して叙階を受けたとして、宮廷に請願を出した。ホノリウスは1月15日に先の命令を停止し、双方を宮廷に呼んでイタリアの司教たちの前で審理を行ったが、決着はつかなかった。最終判断は6月13日にスポレートで開く第二の会議に委ねられることになり、アフリカやガリアの司教も招かれた。両者はそれまでローマに入ることを禁じられ、エウラリウスはアンティウムに滞在し、復活祭の儀式はスポレート司教アキレウスが代行することになった。
しかしエウラリウスは禁令にもかかわらず、3月18日にローマへ戻った。皇帝の命令を無視したことで、先に支持していた皇妃ガッラ・プラキディアとその夫コンスタンティウスの支持を失う結果となり、ローマ市民の暴動が起こり、ラテラノ大聖堂に身を寄せたところを逮捕されて市外へ連れ出された。4月3日、皇帝はボニファティウスを正当な教皇と認め、エウラリウスは教皇位を退けられた。エウラリウスはその後ナペテの司教になったともいわれ、また『教皇の書』の二つの写本では、カンパニアへ追放され、ボニファティウスの死の一年後の423年に亡くなったとされる。422年にボニファティウスが死ぬと、次の教皇に推されたが、すでに高齢で健康を害していたために辞退したという。
この分裂をめぐっては、エウラリウスをペラギウス派、ボニファティウスを反ペラギウス派の代表とみる見方がある。しかし文献に明示がないため、結びつけられないとする研究者もいる。また、助祭の党と司祭の党の政治的な争いだったとみる見解もある。
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