伝記
アタナシウス・キルヒャーは、1602年5月2日に生まれ、1680年11月28日に没した17世紀のドイツ出身の学者でイエズス会司祭である。ヒエログリフの科学的研究に取り組んだ先駆者として知られ、当時のヨーロッパの学術界で最高の権威とされたが、最晩年にはデカルトらの合理主義の立場から批判を受けた。その後は忘れられていたものの、20世紀後半になって業績の先進性と多彩さが再評価され、「遅れてきたルネサンス人」とも呼ばれるようになった。
9人兄弟の末子として、フルダに近いブコニアで生まれた。フルダのイエズス会学校に4年間在籍したのち、神学生としてイエズス会に入った。学校に通いながらラビ(ユダヤ教の教師)にヘブライ語を習っていたことが、のちに役立った。パーダーボルンで哲学と神学を学んでいたが、プロテスタント軍の侵攻のため1622年にケルンへ逃れ、凍ったライン川を渡るときに氷が割れて危うく命を落としかけた。ハイリゲンシュタットへの旅の途中では、プロテスタントの兵に捕らえられ、つるし首にされかけたこともあるという。ハイリゲンシュタットでは数学のほかヘブライ語とシリア語を教えた。1628年に司祭に叙階され、ヴュルツブルク大学で倫理学、数学、ヘブライ語、シリア語を教え、このころ初めてヒエログリフの解明に取り組んだ。
1631年に最初の著作『磁性研究』を世に出したが、三十年戦争の影響でドイツを離れ、アヴィニョンの教皇庁立大学へ逃れた。1633年には神聖ローマ皇帝にウィーンへ招かれ、ケプラーの後継として宮廷付学者に任じられた。しかし、この地位を狙っていたニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスクの策動で任命が取り消され、ローマにとどまって研究を続けた。以後、死ぬまでローマで暮らし、イエズス会の最高学府ローマ学院で1638年以降の数年間、東方の諸言語を教えた。講義から解放されるとマラリアと伝染病の研究に取り組み、古代の遺物の収集にも熱中して、自宅を博物館として公開できるほどのコレクションを築いた。1661年にはコンスタンティヌス帝が建てたと伝わる教会堂の遺跡を発見し、そこに記念聖堂を再建した。この聖堂には彼の死後、心臓が納められた。
エジプト研究では、1633年にコプト語を学び、1636年に初のコプト語文法書を出版した。1643年の著作では、コプト語が古代エジプト語の発展した形であることを述べ、ヒエラティックとヒエログリフの関係も指摘した。ただし『エディプス・エジプティアクス』では、ヒエログリフを文字ではなくオカルト的な記号と結論づけたため、その「翻訳」は荒唐無稽なものとなった。彼の集めた資料はのちにシャンポリオンの手に渡り、解読の成功に貢献したが、今日では解読を2世紀遅らせた人物とする評価も多い。中国研究でも第一人者となり、『中国図説』を著したが、孔子をモーセと同一視するなど誤った主張も混じっていた。
1638年には南イタリアへ赴き、ヴェスヴィオ火山の噴火口を調査し、成果は1664年の『地下世界』にまとめた。1646年には顕微鏡で伝染病の犠牲者の血液を調べ、1658年の著作で血液中の「微小生物」が病気の原因だという説を示し、患者の隔離や検疫などの予防法も挙げた。1646年刊の『光と影の大いなる術』は幻灯機に関する最古の記述とされ、現在では、すでにあった幻灯機の発展に貢献したと見なされている。1666年にはヴォイニッチ手稿を受け取った。
同じ年に亡くなった人物
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- Marie Meurdrac (1680年)
- ピーター・レリー (1680年没)
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同じ地域に関係する人物
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