伝記
ハスドルバル・ギスコは、第二次ポエニ戦争で活躍したカルタゴの将軍である。紀元前202年に没した。名は「ギスコの息子、ハスドルバル」を意味し、史家によってはジスコーネ、ギスコーネとも呼ばれる。バルカ家の一門ではないが、リウィウスはハミルカル・バルカの息子としている。主にヒスパニアと北アフリカで戦った。
紀元前215年にハスドルバル・バルカがデルトサの戦いで敗れると、カルタゴ本国からヒスパニアへ派遣されたとされる。別の記述では、強力な軍を率いて送られたのは紀元前214年とされる。彼の登場でイベリア半島のバルカ家の支配は終わり、本国の干渉も受けるようになった。紀元前212年、ローマ軍が攻勢に出ると、バルカ家出身のマゴとともに軍を率いて激突し、ローマ軍を破ってコルネリウス・スキピオを戦死させた。さらに引き返してハンニバルの弟ハスドルバル・バルカと連携し、もう一人の司令官スキピオ・カルウスを計略にかけて破り、戦死させたという。
ハスドルバル・バルカがベクラの戦いののちイタリアへ脱出すると、ギスコはルシタニアなど西方のカルタゴ領の防衛を任され、ローマ軍との野戦を避け続けた。紀元前207年にはガディス近郊へ進み、もう一人のハンニバルの弟マゴ・バルカと合流した。前年の紀元前208年には軍事行動を起こしていない。ガディスでは、スキピオが追ってきて決戦を強いようとしたが、成功しなかった。紀元前206年には本国から増援を受け、歩兵7万、騎兵4,500を集め、象32頭を擁して、ローマ軍に安心して立ち向かえる軍勢を整えたとされる。しかしイッリパの戦いでスキピオ・アフリカヌスに惨敗した。この敗北でカルタゴのイベリア半島支配は崩れ、わずかな生存者とともにガディスへ戻った。
ヒスパニアを失ったと考えた彼は、海路で北アフリカへ渡り、西ヌミディアのシュファクスと交渉した。スキピオもシュファクスと接触しており、ギスコはシュファクスの前でスキピオと会談した。数日のうちに、ギスコは娘のソフォニスバを嫁がせることを約束して、シュファクスにローマとの同盟を破らせ、カルタゴ側につけることに成功した。ソフォニスバは以前、マシニッサと婚約していたとされ、マシニッサはローマと結んだ。シュファクスはマシニッサの領土に攻め込み、これを追い出した。
紀元前204年、スキピオが北アフリカに上陸すると、ギスコとシュファクスは歩兵8万、騎兵1万3千で立ち向かった。スキピオは追われたマシニッサの支援を受け、夜襲をかけた。スキピオは二つの敵陣に火を放つ計画を立て、マシニッサの助けでそれを実行し、混乱と暗闇のなかで多数を討ったともいう。ポリュビオスによれば、ギスコとシュファクスは4万の兵を失った。シュファクスは妻ソフォニスバに、カルタゴを見捨てないよう諭され、再び会戦を挑んだが敗れた(バグラデス川の戦い)。ギスコのその後には異説がある。カルタゴに帰り、敗軍の将として民衆に殺される前に自害したともいわれ、傭兵とヌミディア人を集めて自立した軍閥となり、のちハンニバルの軍に加わったが、騒乱で群衆に襲われ、一族の墓に逃げ込んで服毒自殺し、首を市中にさらされたともいう。リウィウスは、ファビウス・マクシムスの言葉として、彼を「退却の迅速さでは群を抜く」と評している。生涯に3度傭兵を募集していずれも成功したことから、外交の力が抜きん出ていたと思われ、ポリュビオスの記述からは、イベリア半島に独自の財源を持つ人脈があったとうかがえる。
同じ年に亡くなった人物
- 項羽 (紀元前202年没)
- ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス (紀元前235年の執政官) (紀元前202年没)
- マゴ (紀元前 202年)
- サンガミッター (紀元前202)
- Agathocles of Egypt (紀元前202)
同じ地域に関係する人物
- ガイセリック (477年没)
- マゴ (紀元前150)
- Habiba Msika (1930年没)
- Saint Aurelius (430年没)
- Olivia de Palermo (463年没)