伝記
ゲオルギー・ダネリヤは、1930年8月25日に生まれ、2019年4月4日に没したソ連・ロシアの映画監督である。ロシア国籍のグルジア人で、トビリシのグルジア人の家に生まれた。父ニコライは農民の出で、十月革命後にモスクワへ移り、鉄道工科の大学を出てモスクワ地下鉄の建設に関わる技師として働いた。母マリアは由緒ある貴族の家柄で、トビリシの映画撮影所やモスフィルムで監督や助監督を務めた。叔母のヴェリコ・アンジャパリゼは人気のあるグルジアの女優で、映画監督ミヘイル・チアウレリの妻であった。
生後1年で一家はモスクワに移った。独ソ戦が始まったころには母とともに親戚のいるトビリシに滞在して2年を過ごし、1943年に一家はモスクワで再び一緒になった。映画の世界に入る前には、叔父チアウレリの映画で端役を演じている。1955年にモスクワ建築大学を卒業して2年間建築家として働いたが、1956年にモスフィルムに高等監督コースが設けられると、これに入った。指導者は母の親しい友人であったミハイル・カラトゾフである。1959年に課程を修了し、同年からモスフィルムで監督として働き始めた。
最初の長編は、ヴェーラ・パノーワの中篇小説を題材にした『セリョージャ』(1960年)で、友人のイーゴリ・タランキンと共同監督した。この作品はカルロヴィ・ヴァリ映画祭をはじめ、いくつかの国際映画祭で賞を得た。1964年公開の『モスクワを歩く』は、若い労働者の夜勤明けの1日を爽やかに描き、ソ連映画界に新風を吹き込む作品として話題を呼んだ。この作品を通じて、滑稽さと悲しみ、皮肉とリアリズム、ドキュメンタリー調に映した街の風景を結びつける自らの作風を確立した。日本でも1964年10月に第2回ソビエト映画祭で上映された。ニキータ・ミハルコフが初の主要な役で出演した作品で、1964年のカンヌ国際映画祭の公式出品にも選ばれた。脚本を担当したのは若いゲンナジー・シュパリコフで、検閲を避けるために当局の幹部のもとを訪ねるなどしたとされる。1965年の次作は、フルシチョフ時代を風刺した喜劇で、検閲により事実上の公開禁止となった。もっとも、1970年代を通じて小さな映画館やクラブで上映され続け、のちには皆が見ていたと本人は語っている。
その後は風刺をやめて、笑いと悲しみを併せ持つ路線に戻り、ソ連を代表する喜劇監督のひとりとなった。1971年の『幸運の紳士』では、ダネリヤは創作面の責任者と脚本を担い、公開年に6500万人を集めた。1973年にはマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』をもとにした児童映画も撮っている。1975年の『アフォーニャ』はソ連国内で最も観客を集め、動員は6220万人で、その年の第1位であった。タシケント国際映画祭の大賞を受けている。1977年の『ミミノ』はモスクワ国際映画祭で金賞を、1979年の『秋のマラソン』はサン・セバスティアン国際映画祭で大賞を得た。1986年のSF映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』はソ連全土で1570万人を動員し、のちに世界中でカルト的な人気を博して、2013年にはタチアナ・イリーナとの共同監督でアニメ『クー!キン・ザ・ザ』になった。1989年にはソ連人民芸術家の称号を受け、1997年にはロシア連邦国家賞を受賞した。
2019年2月に肺炎のため入院し、同年4月4日に死去した。
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