HISTORICAL PERSON · 434年没

ルーア

フン族の王でアッティラの伯父。亡命してきたローマの将軍アエティウスに軍事支援を与えて帰還させ、東ローマ帝国に貢納金を課すなどフン族の勢力拡大の礎を築いた。

生涯
434年没
死亡地
ローマ帝国(スレム郡 / パンノニア)
出生地
—
出典
世界地図
ローマ帝国(スレム郡)

伝記

ルーアは、フン族の王である。ルアス、ルア、ルギラなどとも呼ばれ、ギリシア語の文献ではルガス、ルアス、ロイラスの3通りの形で名が伝わる。アッティラの伯父にあたる。没年は434年とされ、生年は不明である。先祖や父についてもわかっていない。5世紀初頭に東ローマ帝国へ侵攻した指導者ウルディンを父とする研究者もいたが、近年では、ウルディンはフン族全体の王ではなく、複数いた軍事指導者の一人だったとする見方が強い。弟にはオクタル(ウプタルとも)とムンズクがいたが、どちらも432年以前に世を去っている。

王に就いた時期ははっきりしない。432年とするものもあれば、410年頃とするものもある。名が歴史に初めて現れる432年には単独の統治者となっていたが、420年以前から弟のオクタルと共同で統治していたとする説もある。共同統治は、ルーアが東のフン族、オクタルが西のフン族を治める地理的な分担だった可能性も指摘される。オクタルは430年に、ブルグント人との戦いの最中に死んだともいわれる。

ルーアが王となった頃、フン族はバルカン半島に進出し、ドナウ川中流域を押さえていた。脅威にさらされた東ローマ皇帝テオドシウス2世は、430年頃に年350ローマ・ポンド(125キログラム)の貢納金の支払いに同意させられた。別の説明では、422年にトラキアへ大規模な侵入があり、コンスタンティノープルまでおびやかされたのち、毎年350ポンドの金を払う和約が結ばれたとされる。

432年、内戦に敗れた西ローマ帝国の将軍アエティウスがフン族のもとへ亡命した。アエティウスは少年時代にフン族のもとで人質として暮らした経験があり、ルーアと親交があったとする見方もあるほか、以前にもフン族の軍事援助を受けていた。433年、ルーアはアエティウスに軍事力を提供してローマへ帰還させ、地位を回復させた。その見返りにパンノニア属州が割譲されたという。割譲された時期については、425年、431年、433年など、研究者によって見方が分かれる。

434年、ルーアは東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへ使者を送り、フン族からの逃亡者の送還を求め、応じなければ戦争になると脅した。逃亡者たちは、もとはフン族に従属する部族だったが、ルーアの支配を嫌って亡命し、東ローマ帝国の傭兵となっていた。帝国は戦争を恐れたが、返答の使節が送られる前に、ルーアは434年の春に急死した。東ローマの人々は喜んで神に祈り、総主教プロクロスは『エゼキエル書』の一節を引いて説教した。人々は、ルーアが神の怒りの雷に打たれて死んだと信じたとされる。コンスタンティノープルのソクラテスも、テオドシウス2世の祈りに神がこたえ、ルーアは雷に打たれて死に、部下には疫病が広がり、生き残りは天からの火に焼かれたと記している。ただし、この文は皇帝をたたえる性格が強い。テオドシウス2世が異教神殿の破壊を命じる法を出したのは435年11月14日なので、死はその後とも考えられる。一方、452年の『ガリア年代記』は434年に、和平を結んでいたルーアが死に、ブレダが跡を継いだと記す。跡は、弟ムンズクの息子であるブレダとアッティラが継いだ。東ローマ側はその後、マルグスで交渉に臨み、年の貢納金は700ポンドの金に引き上げられ、逃亡者も引き渡されたという。逃亡者のうち王家の血を引く二人は、フン族によって磔にされたとされる。アッティラのもとでフン族は全盛期を迎えるが、ルーアはその重要な先駆者の役割を果たした。

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