HISTORICAL PERSON · 2020年没

パオロ・ロッシ

イタリアの元サッカー選手でフォワード。1982年のワールドカップで6得点を挙げて得点王となり、イタリアを優勝に導いた。愛称は「黄金の子」。

生涯
2020年没
死亡地
イタリア共和国(シエーナ県 / シエーナ)
出生地
イタリア共和国(プラート)
出典
世界地図
イタリア共和国(シエーナ県)

伝記

パオロ・ロッシは、1956年9月23日にイタリア中部トスカーナ州のプラートで生まれ、2020年12月9日に没した元イタリア代表のサッカー選手である。ポジションはフォワードで、華奢な体つきながら相手のマークを巧みに外して得点を重ねた。1982年のワールドカップで6得点を挙げて得点王となり、イタリアを優勝に導いたことで知られ、愛称は「黄金の子」だった。

少年時代は陸上競技の選手に憧れていたが、父の影響もあってサッカー選手を志した。地元のサンタ・ルツィアで競技を始め、兄とともにアンブロシアーナでプレーし、ヴィルトゥスを経てユヴェントスの下部組織に入った。1973年にプロ契約を結んだが、有望視されながら膝の怪我が重なって出場機会に恵まれず、他クラブとの共同所有という形で放出された。コモへのレンタルを経て、1976年にセリエBのヴィチェンツァへ移った。ここで才能が開花し、1976-77シーズンには21ゴールで得点王となってセリエA昇格に貢献し、翌シーズンのセリエAでも24得点で得点王となった。チームはユヴェントスに次ぐ2位に入り、ロッシの評価は急騰した。ヴィチェンツァの会長はユヴェントスとの共同所有権の50%を得るために300万ドルを投じ、この額が国内最高額だったため、移籍金の高騰に抗議してイタリアサッカー連盟の会長が辞任する事態にまでなった。

1979-80シーズンにはペルージャへレンタルされたが、1980年3月、前年末のアヴェッリーノ戦での八百長への関与を疑われた。ロッシは容疑を否認したものの、3年間の出場停止処分を受け、のちに2年間に軽減された。出場停止の間にユヴェントスと契約し、1981-82シーズンの終盤に復帰した。レギュラーに定着した1982-83シーズン以降は、セリエA優勝、コッパ・イタリア優勝、カップウィナーズカップ優勝、欧州チャンピオンズカップ優勝などに貢献した。1985年にACミランへ移ったが、翌年2月にシルビオ・ベルルスコーニが買収して会長となると、ガルデリシとの交換でヴェローナへ放出された。1986-87シーズンは20試合で4得点を挙げて上位進出を支え、シーズン後に膝の問題のため31歳で現役を退いた。

代表では、1977年12月のベルギー戦でデビューし、1978年のワールドカップでは控えから不調のグラツィアーニに代わって先発となり、ベッテガと2トップを組んで3得点を挙げ、ベスト4入りに貢献した。八百長の容疑で1980年4月のポーランド戦を最後に代表を離れたが、出場停止が明けた1982年5月に復帰し、スペインでのワールドカップに臨んだ。長いブランクで1次リーグは精彩を欠いたものの、2次リーグのブラジル戦でハットトリックを決めて復活を遂げた。準決勝のポーランド戦で2得点、決勝の西ドイツ戦で先制点を挙げ、1938年大会以来44年ぶりの優勝をもたらした。この年のバロンドールも受賞している。1986年のワールドカップにも選ばれたが出番はなく、同年5月の中国戦が最後の代表戦となった。

引退後は一時サッカー界を離れ、元チームメイトと不動産会社を経営した。のちに復帰してテレビなどで解説を務め、2018年からはヴィチェンツァの大使兼取締役も務めた。1999年には欧州議会議員選挙に立候補している。晩年は肺膿瘍を患い、2020年12月に肺がんで死去し、葬儀には妻子やタルデッリ、カブリーニらが参列した。ブライアン・グランヴィルは、チャンスを嗅ぎ付けると素早くものにする選手と評した。本人は八百長への関与を、2014年に至るまで否定し続けた。

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