伝記
テオドシウス2世は、東ローマ帝国テオドシウス朝の第2代皇帝である。401年4月10日、コンスタンティノポリスで、皇帝アルカディウスと皇后アエリア・エウドクシアの子として生まれた。姉妹たちのなかで唯一の男子だったため、誕生は皇族にも首都の民にも歓迎されたという。403年と407年には執政官を務め、409年にもホノリウスとともに就任している。402年1月に洗礼を受けて共同皇帝に立てられ、幼いうちから父の後継者にふさわしい教育を施された。歴史家ネイサンは、受け身の皇帝だった父とは違う君主に育てるための訓練だったと評価している。古典的な文法と修辞学を学び、二つの言語を操ったようで、写本を校訂する作業を好んだ。乗馬や剣術などの武芸も教えられ、姉のプルケリアからは正統信仰や慈善、禁欲の心得、宮廷での立ち居振る舞いや感情の抑え方、大臣たちとの接し方まで指導を受けた。
408年に父が没すると、わずか7歳で単独の皇帝となり、近衛長官アンテミオスの摂政のもとで学業を続けた。ササン朝の王は、アルカディウスから幼い皇子の後見人に指名されていたとされ、その存在もあって、両帝国は420年ごろまで平和を保った。西方では、叔父のホノリウスが幼い皇帝の安全を案じ、将軍スティリコとともに、それぞれ東方へ赴く計画を立てたという。ゾシモスによれば、スティリコが財政難や僭称者コンスタンティヌス3世の存在を理由にホノリウスを思いとどまらせた。この年のうちにスティリコは処刑されている。その後、409年にはコンスタンティノポリスから西帝を守る援軍がラヴェンナへ送られている。414年にはプルケリアが摂政となり、皇帝が自ら統治するのは416年からである。もっとも、治世を通じて宮廷の有力者に左右されたと評される。「書に優れた教養人で、神学や学問に熱中して政治を顧みなかった」ともいわれ、書に巧みなことから「カリグラフォス(能書家)」の異名で知られる。
それでも治世には、帝国の基礎となる事業が続いた。413年にはアンテミオスの影響下で、首都を守る第二の陸上防衛線である「テオドシウスの城壁」が築かれた。438年には、312年以降のローマ帝国の法令を集めた『テオドシウス法典』を公布している。421年にはササン朝ペルシアとの戦争が起こったが約1年で終わり、平和条約で戦前の状態に戻された。440年に始まった戦争もヴァンダル族の侵入で速やかに収まり、441年にヤズデギルド2世との間で相互不可侵の約束が結ばれた。一方で、フン族のアッティラにはたびたび侵入され、多額の金を貢納して敵をなだめたと伝えられる。北アフリカのヴァンダル王国に対する遠征は失敗に終わった。
宗教面では、ネストリウス派とエウテュケス派をめぐるキリスト論の二つの論争に関わった。431年には西の皇帝ヴァレンティニアヌス3世とともにエフェソス公会議を招集し、435年にはネストリウスを上エジプトへ追放している。さらに449年には第二エフェソス公会議を招集して、論争の収拾を図った。
450年7月28日、乗馬中の事故がもとで急死した。帝位は姉プルケリアと結婚したマルキアヌスが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アプトニオス (450年(推定))
- ガッラ・プラキディア (450年没)
- ネストリウス (450年代没)
- コルシカのジューリア (450年)
- アレクサンドリアのヘルメイアス (450年没)
同じ地域に関係する人物
- シェイフ・ハムドゥッラー (1520年没)
- セリム3世 (1808年没)
- アーリ・パシャ (1871年没)
- ムスタファ2世 (1703年没)
- Meletius III of Constantinople (1845年没)