伝記
ネストリウスは、東ローマ帝国のコンスタンティノープル大主教を務めた神学者である。生年は381年とも386年ともされ、シリア属州のゲルマニケイア(現在のトルコのカフラマンマラシュ)で生まれた。出自については、ペルシア系だったと伝えるシリア語の文献がある一方、ギリシア文化に染まったアンティオキアまたはシリアの出身とする説もある。アンティオキアでモプスエスティアのテオドロスに学び、エウプレピオス修道院で司祭・修道士として暮らすうちに、説教の名手として評判を得た。
428年にコンスタンティノープル大主教シシニオスが没すると、皇帝テオドシウス2世によって後任の大主教に迎えられた。ところが就任して間もなく、キリストの神性と人性の関係をめぐる二つの陣営の争いに巻き込まれる。マリアを「神の母(テオトコス)」と呼ぶことを主張する側と、永遠の存在である神が生まれるはずはないとして退ける側とが対立しており、彼はその中間の道を探った。神の本性に人としての行為や苦しみを帰することは避けつつ、「キリストの母(クリストトコス)」という呼称を提案したのだが、どちらの側にも受け入れられなかった。テオトコスを文字どおりに「神を生むもの」と解すれば、変化を被らないはずの神に肉による誕生を帰すことになる、というのが当時の彼の危惧だったとされる。キリストの中で神性と人性は混ざり合うのではなく、一つのプロソポン(位格・顔)において結びつくと説いた点も、アレクサンドリア主教キュリロスら神性を重んじる側との激しい論争を招いた。なお、キュリロス派はプラトン主義の系譜に、アンティオキア学派はアリストテレスの系譜にあると説明されることがある。なお、彼自身はテオトコスの語を使ったこともあり、その禁止を唱えたわけではないとする見方が近年の研究にある。
431年、テオドシウス2世と西の皇帝ヴァレンティニアヌス3世の招集でエフェソス公会議が開かれた。キュリロスが議長を務めた会議は、ネストリウスの説を異端と断じて大主教職を罷免した。ネストリウス自身は会議に出席しなかったとされる。一方、アンティオキア主教ヨアンネスが率いる別会議は彼を擁護してキュリロスを罷免したが、後にキュリロスは復職した。ネストリウスは希望して古巣の修道院に戻ったが、435年にテオドシウス2世により上エジプトへ追放され、その地の修道院で隠遁生活を送りながら自説を弁護し続けた。晩年の450年には『ダマスコのヘラクレイデス論』を著したという。451年ごろ、亡命先で世を去ったとされる。同年のカルケドン公会議では、最後まで彼を支えたキュロスのテオドレトスも破門に同意し、帝国内に擁護者はいなくなった。
その後、ペルシア帝国内の東方教会は彼への断罪を受け入れなかった。この教会は410年の会議で「東方の全キリスト教徒の長」の称号を認められ、426年にはアンティオキア総主教の管轄からも外れており、論争より前から独立した歩みを進めていた。西方の人々はこの教会を「ネストリウス派」と呼んだが、その母体となるシリア語キリスト教徒の共同体は2世紀にはパルティア領内に成立しており、彼が開祖というわけではない。東方教会では彼を「ギリシアの教師」の一人として敬い、その典礼には彼に帰される祈りが含まれる。ネストリウス派はのちにインドや中国にまで広がり、中国では景教と呼ばれた。『ヘラクレイデス論』は1910年に再発見され、その神学は見直されつつある。ただし、彼の教説が正統かどうかはなお議論が続いている。
同じ年に亡くなった人物
- テオドシウス2世 (450年没)
- コリウン (450年没)
- アプトニオス (450年(推定))
- ガッラ・プラキディア (450年没)
- ポイメン (450年)
同じ地域に関係する人物
- 大パコミオス (348年没)
- リシャール・サンク (2004年没)
- ピエール1世 (ブルターニュ公) (1250年没)
- Helena of Egypt (紀元前400)
- Dioscorus II of Alexandria (518年没)