伝記
アンドレ・ル・ノートルは、ルイ14世に仕えたフランスの造園家である。1613年3月12日にパリで生まれ、1700年9月15日に同地で没した。テュイルリー庭園、ヴォー=ル=ヴィコント城の庭園、ヴェルサイユ宮殿の庭園などを設計し、フランス式庭園の様式を完成させた人物として知られる。
家は代々、王の庭を預かる庭師の家系であった。祖父ピエールは野菜栽培の庭師から王のテュイルリー庭園の庭師となり、この名誉ある職を息子に譲った。父ジャンはマリー・ド・メディシスのテュイルリー庭園の維持を任され、1625年からは草木と庭の設計者の称号を持った。母マリー・ジャクランも、庭師の親方トゥーサン・ジャクランの娘である。名は代父アンドレ・ベラール・ド・メゾンセルにちなむ。この人物はアンリ4世とルイ13世のもとで王の庭園の総監督にあたった。
1620年からは国王つきの画家シモン・ヴーエの工房に入り、六年間デッサンを学んだ。若い頃は画家になるつもりだったという。彫刻をルイ・ランベール、建築と遠近法をフランソワ・マンサールに学んだとされる。父の働く城館で出会った職人や画家との付き合いは、宮廷の習わしになじむのに役立ち、のちの経歴に生きた。
1635年、22歳のとき、国王ルイ13世の弟ガストン・ドルレアンの首席庭師に任命され、サン=クルーとリュクサンブールの庭を預かった。最初の大きな庭として、リール南方のワティニー城の庭がある。領主フィリップ・ド・ケッセルのために造られ、1640年に完成した。設計は1635年から1637年ごろ、ル・ノートルが22歳から24歳のころと推定され、鋭角に交わる並木道、遠近法に従った樹種の段階的な配置、石の大きなメディチ壺、緑の劇場などに特徴がみえる。この仕事で初めてまとまった収入を得て、評判も高まった。1637年には父の跡を継ぎ、テュイルリー宮殿の花壇の設計士となり、1640年に、小姓たちを統括する役人の娘フランソワーズ・ラングロワと結婚した。三人の子をもうけたが、いずれも幼くして亡くなった。1643年には国王のすべての庭園の草木と花壇の設計者となり、ガニー城、メゾン城、フォンテヌブロー城などの庭を当世風に改めた。
1656年から1661年にかけては、財務卿ニコラ・フーケのためにヴォー=ル=ヴィコント城の庭園を設計し、建築家ル・ヴォー、画家ル・ブランと組んで、花壇、水面、木立と遠近法の逆転をつくり上げた。この仕事で国際的な名声を得た。1661年にフーケが逮捕されると、ルイ14世に仕えてヴェルサイユの庭の整備に取りかかり、1662年の終わりにアムールの花壇から手を付け、1687年まで続けた。計画を描き、庭師長の班による工事を監督した。
国内外の仕事も多い。1662年にはイングランド王チャールズ2世のためにグリニッジの庭を設計し、1662年から1684年にかけては、大コンデ公のためにシャンティイ城の庭を造り替えた。サン=ジェルマン=アン=レー城の庭は1663年から1672年にかけて設計し、斜めにずらした遠近法の案が、ル・ヴォーの案に勝ったという。サン=クルーの庭も、オルレアン公フィリップのために1665年から1693年まで手がけた。ほかにソー公園、イタリアのトリノの王宮の庭も、その名とともに挙げられる。弟子にアレクサンドル・ル・ブロンがいる。
人柄は、いつも飾り気のない善良さを見せたことから、生前「善人ル・ノートル」と呼ばれた。宮廷の陰謀から身を遠ざけながら、庭に熱中した王の信任を得たという。
同じ年に亡くなった人物
- シルヴェストロ・ヴァリエル (1700年没)
- カルロス2世 (スペイン王) (1700年没)
- ラガリ・ハサン・チェレビ (1700年(推定))
- マルグリット・ブールジョワ (1700年没)
- ルイ・ジョリエ (1700年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・ベルチェ (1861年没)
- マリー・ジャエル (1925年没)
- ジョゼフ・アレヴィ (1917年没)
- ベルナール7世 (アルマニャック伯) (1418年没)
- アントナン・カレーム (1833年没)