伝記
ヤコブ・ベルヌーイは、スイスの数学者・科学者である。ヤーコプ、ジャック、ジェームス・ベルヌーイとも呼ばれる。ユリウス暦1654年12月27日にバーゼルで生まれ、1705年8月16日(グレゴリオ暦)に同地で没した。弟は同じく数学者のヨハン・ベルヌーイで、ベルヌーイ家の中でも最も卓越した数学者の一人に数えられ、微分積分学の発展に大きく寄与した。
生家は商人の家で、父ニコラウスは極東の香辛料を扱う裕福な輸入商、母はマルガレータ・シェーナウアーであった。幼いころから聡明だったため、父は大学で学ぶことを許し、ヤコブはバーゼル大学で哲学と神学を修めた。神学者にしたいという父の望みがあったからである。しかし在学中に数学、物理学、天文学に次第に惹かれ、大学を離れる前から、科学こそ自分の天職だと自覚していたという。父は快く思わず、ヤコブはジュネーヴに移って1年ほど数学を教えた。やがて父の気持ちも和らぎ、当代の著名な科学者たちに会う欧州旅行の費用を出した。1676年にイギリスを訪れた際にはロバート・ボイルとロバート・フックに会い、この出会いが、生涯を科学と数学の研究に捧げる契機になった。
1682年からバーゼル大学で教え、1687年には同大学の数学教授に就任して、没するまでその職にあった。バーゼルに実験的な学校を設けたとも伝えられる。ライプニッツと文通を重ね、その書簡を通じて微積分に習熟した。ライプニッツ式の無限小解析を最も早く理解して使いこなした一人で、ニュートンとライプニッツが残した水準を超えて微積分を発展させ、新しい難問に応用した。弟のヨハンとも共同研究を行い、初期の業績である超越曲線(1696年)と等周問題(1700年、1701年)は、その共同作業の成果であった。1690年には、変数分離形の微分方程式を解く方法を最初に考え出した人物となった。対数螺旋の伸開線と縮閉線がもとの曲線自身と一致することも示した。また、サイクロイドが最速降下曲線であることは、1697年に兄弟が発見したが、ほぼ同時に複数の人物が見いだしていたという。懸垂線については、ガリレオが放物線と取り違えていたが、ヤコブが問題として提起し、1691年にヨハンが解いた。これが兄弟間の確執の始まりになったとされる。二人は二重積分の問題もいくつか解いたが、一般的な体系が得られるのは数年後のことであった。
最大の功績は確率論にあるとされ、その考えは大数の法則の源流となった。遺著『推測法』(アルス・コンジェクタンディ)は、確率論の先駆的な著作で、大数の法則の最初の形が導かれている。肺結核による死から8年後の1713年に、甥のニコラウスが刊行した。ベルヌーイ試行やベルヌーイ数という名称は、この著作に由来し、彼の業績を記念して付けられた。月のクレーターには、ヤコブと弟ヨハンにちなんで名が付けられている。
墓碑には、自ら選んだ対数螺旋の図と、「変化しつつも、私は同じ姿で甦る」という意味のラテン語の銘句が刻まれることになった。しかし、石工が彫ったのは対数螺旋ではなく、アルキメデスの螺旋であったと伝えられる。これは本人の望みとは異なるものであった。
同じ年に亡くなった人物
- ニノン・ド・ランクロ (1705年没)
- ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1705年没)
- ドーノワ夫人 (1705年没)
- ルカ・ジョルダーノ (1705年没)
- テケリ・イムレ (1705年没)
同じ地域に関係する人物
- ヤーコプ・ヴァッカーナーゲル (1938年没)
- ヘルマン・ケステン (1996年没)
- ヨハン・ベルヌーイ (1748年没)
- パウル・ヘルマン・ミュラー (1965年没)
- ゼンタ・マウリーナ (1978年没)