伝記
リウィウス・セウェルスは、420年ごろに生まれ、465年に没した西ローマ帝国の皇帝である。在位は461年11月19日から465年8月15日とされる。ルカニアの出身で元老院議員だったが、出自や経歴、人柄を伝える記録はほとんどなく、無名の人物だった。史料は彼を敬虔で信心深い人物と述べている。歴史家ギボンは、彼の4年の治世と、次のアンテミウスの即位までの約2年を区別する必要のない「空位の6年間」と呼んだ。セウェルス3世とも呼ばれる。
彼が皇帝になった経緯は、前帝マヨリアヌスの死に始まる。マヨリアヌスは西ローマ帝国の立て直しに意欲的に取り組み、ガリアのブルグント人やヒスパニアの西ゴート人を再び服属させたが、ヴァンダル人討伐のための艦隊を焼かれ、不利な和議を結んだ。イタリアへ戻る途中でリキメルに捕らえられ、461年8月7日に殺害された。皇帝の座が空くと、東ローマ皇帝レオ1世、ヴァンダル王ガイセリック、リキメルの間で、西の帝位をめぐる争いが起こった。ガイセリックは、455年のローマ略奪で連れ去った皇女エウドキアを自分の王子と結婚させており、皇族の縁戚として、皇女プラキディアの夫であるオリブリウスを推した。ガイセリックは、マヨリアヌスと結んだ条約は死によって無効になったとして、イタリアやシチリアを襲い、圧力をかけた。しかし蛮族の出身で自らは皇帝になれないリキメルは、従わせやすい弱い皇帝を求めており、オリブリウスには目もくれず、リウィウス・セウェルスを選んだ。461年11月19日、ラヴェンナで皇帝に選出された。
治世を通じて実権はリキメルが握っていた。リウィウス・セウェルスの名で出された硬貨には、リキメルのものと見なされるモノグラムが刻まれている。同時代の年代記は、464年にアラン人の王ベルグルがリキメルに敗れて死んだことを、リキメルを王と呼んで記している。帝国の領土はすでに縮み、ブリタンニアは放棄され、アフリカはヴァンダル人に征服され、ヒスパニアは西ゴート人が占めていた。ガリアを支配するアエギディウスとイリュリクムの将軍はマヨリアヌスの支持者で、新帝を認めなかった。東ローマ皇帝レオ1世も承認せず、東方の史料は彼を僭称者と見なしている。それでも、強大な軍を擁するマルケリヌスの侵攻を恐れた彼は、レオ1世に援助を求め、東の皇帝の使者によって攻撃は思いとどまらされた。この出来事により、イリュリクムは東帝国の勢力圏に移ったとされる。執政官の任命では、462年に単独で就任し、翌年には有力な元老院議員を選んだが、464年から465年には、東帝国が指名した二人を受け入れた。その一人がオリブリウスであった。
ガリアでは、アエギディウスに対抗するため、アグリッピヌスをガリア軍司令官に任じ、西ゴート人にナルボンヌを割いて支援を得た。ヴァンダル人の襲撃はやまず、イタリアの地主層は打撃を受けた。和平の使者が送られたが、ガイセリックは提案を拒否した。
465年に死去したが、死因は明確ではない。6世紀のカッシオドルスの年代記はリキメルによる毒殺とするが、同時代の詩人シドニウス・アポリナリスは、死の3年後の書簡で自然死としている。歴史家ヨルダネスは治世を3年とし、死亡日にも異説がある。その後リキメルは約2年、皇帝を置かずに支配し、467年にレオ1世が指名したアンテミウスを迎えた。
同じ年に亡くなった人物
- 文成帝 (北魏) (465年没)
同じ地域に関係する人物
- マルクス・ポルキウス・カト (紀元前118年没)
- グレゴリウス2世 (ローマ教皇) (731年没)
- ウァレンティニアヌス3世 (455年没)
- ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック (1869年没)
- クィントゥス・トゥッリウス・キケロ (紀元前43年没)