伝記
アンテミウスは、420年ごろに生まれ、472年7月11日に没した西ローマ帝国の皇帝である。在位は467年から472年。東ローマ皇帝レオ1世の指名で西の帝位についた。ヴァンダル人と西ゴート人という二つの軍事的脅威に立ち向かったが、どちらの遠征も失敗に終わり、西帝国の実力者リキメルとの権力争いに敗れて処刑された。
東ローマ帝国で文武の高位を占めてきた名門の出で、母方の祖父は、404年から415年に東方の民政総督を務め、405年に執政官となったアンテミウスである。父は東方軍司令官を務めた人物で、ウァレンス帝に対する僭称皇帝プロコピウスの子孫にあたる。コンスタンティノポリスに生まれ、のちにアレクサンドリアへ渡り、新プラトン主義の哲学者プロクロスに学んだ。同門には、のちに執政官などを務めた人々や、異教徒の詩人がいた。
453年に東ローマ皇帝マルキアヌスの皇女と結婚し、アッティラの死後にはドナウ川辺境の防衛線を立て直すために派遣された。454年に呼び戻され、パトリキウスの称号を与えられて東方軍司令官の一人となり、455年には西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世と同僚の執政官に就いた。こうした栄誉から、マルキアヌスが彼を東西いずれかの次期皇帝と考えていたことがうかがえる。しかしマルキアヌスは457年に世を去り、実権を握ったアスパルは、自立して動きそうなアンテミウスを嫌い、低い階級の軍人レオを皇帝に選ばせた。アンテミウスは軍司令官となって新帝に仕え、460年ごろにはイリュリクムで東ゴート人を破り、466年から467年の冬にはドナウ川を渡ってダキアを荒らしたフン人を撃退している。
465年に西の皇帝リウィウス・セウェルスが死去すると、ガイセリックはオリブリウスを推し、シチリアやイタリア、さらに東帝国の領域にまで襲撃を広げた。レオ1世は動かざるを得なくなり、アンテミウスにマルケリヌスの軍を付けてイタリアへ送った。467年4月12日、ローマの近郊で皇帝と宣言された。東西の宮廷は良好で、毎年の執政官は互いの指名者を受け入れ、471年にはアンテミウスの皇子マルキアヌスとレオ1世の皇女が結婚した。唯一の娘アリピアはリキメルに嫁いだが、この夫を好んでいなかったと詩人シドニウスがほのめかしている。
元老院の支持を得るため、アンテミウスはイタリアやガリアの有力者にパトリキウスの称号を乱発し、称号の価値が下がるほどだったという。ガリア人の詩人シドニウスも、この称号と元老院の第一人者の地位を授けられた。ミラノ、ラヴェンナ、ローマの造幣所では、東西の二皇帝が手を取り合う図柄の金貨も発行された。
468年、東西合同のヴァンダル王国攻撃が行われた。総司令官はレオ1世の義弟バシリスクスで、1013隻の船団が用意されたが、ガイセリックの偽りの降伏申し出に乗じた火船の攻撃で、船団の半数を失う大敗となった。マルケリヌスは、リキメルの差し金とも見られる形で部下に暗殺された。アンテミウスは方針をガリアの再征服に切り替えたが、470年にはブルトン人の軍勢が西ゴート人に敗れ、その後には皇子を名目上の司令官とした西ローマ軍もローヌ川で敗れた。リキメルはアンテミウスを「つまらぬギリシャ人」と呼び、アンテミウスはリキメルを「忘恩の男」と罵った。両者の不和が極まったのは、リキメルの支持者だった元老院議員ロマヌスが470年に反逆罪で告発され、死刑を宣告された裁判とされる。472年、アンテミウスはリキメルとの争いに敗れて処刑された。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- Cornelius a Lapide (1637年没)
- エルンスト・ローベルト・クルツィウス (1956年没)
- レオ7世 (ローマ教皇) (939年没)
- ポンポニア (紀元前27)
- プブリウス・スルピキウス・ルフス (紀元前87)