伝記
ジャック・ドロールは、1925年7月20日にパリで生まれたフランスの政治家、経済学者である。正式な名はジャック・リュシアン・ジャン・ドロールという。父ルイはフランス銀行の現金輸送係で、熱心なカトリック信者だった。パリのメニルモンタン地区で育ち、小学校修了の証書では「優」の評価を得ている。中等教育はパリのリセ・ヴォルテール、オーリヤックのリセ、クレルモン=フェランのリセ・ブレーズ・パスカルなどで受けた。法学部に入ったが、ドイツ軍による大学の占領後に学業を中断し、パリへ戻ってフランス銀行に入った。1950年には銀行の高等教育機関を修了し、一説にはパリ大学法学部(政治経済学専攻)の卒業もこの年とされる。フランス銀行では1945年から1962年まで勤め、書記から課長、局長の側近へと進んだ。
銀行勤めのかたわら、1945年にキリスト教系の労働組合であるフランス・キリスト教労働者同盟に加わった。人格主義の思想の影響を受け、組合を宗教色の薄いものへ改め、社会主義的・民主的な方向へ導こうとする少数派の集団「ルコンストリュクシオン」に参加している。この集団は多数派となり、組合は後にフランス民主労働同盟へと変わった。彼は1964年にその流れに従い、生涯この組合の一員であり続けた。1959年から1965年にかけては雑誌『シトワイヤン60』を主宰している。1962年に計画庁の社会・文化部門の責任者となり、1969年からはジャック・シャバン=デルマス首相のもとで働いた。その「新しい社会」構想に大きな影響を与え、継続的な職業教育に関する法律にも着想を与えたとされる。
1974年に社会党に入党し、1979年に欧州議会議員に当選した。1981年にフランソワ・ミッテラン大統領のもとで経済・財政大臣となり、1983年には経済・財政・予算相に就いた。財務を担った時期には、伝統的な社会主義政策を転換して市場経済を容認する方向を進め、「緊縮への転換」を主導して経済の悪化に立ち向かった。1984年7月にピエール・モーロワ首相が辞任したとき、彼は社会党でミッテランに次ぐ実力者であり、後継内閣を組閣する意思を示していた。しかしミッテランが彼の台頭を恐れたとされ、首相の座はローラン・ファビウスに回り、彼は欧州委員会の委員長に回った。
1985年から1995年までの10年間、ヨーロッパ共同体の執行機関である欧州委員会の委員長を務めた。在任中は予算改革を進め、欧州単一市場の基礎を築き、これは1993年1月1日に実施された。単一欧州議定書やシェンゲン協定、エラスムス計画、ユーロの導入にも貢献した。1995年のフランス大統領選挙では社会党から推す声が強く、有力な候補とみられたが、人々の予想に反して出馬を辞退した。その後は影響力を弱め、EU改革を訴えるスピネッリ・グループなどで活動し、1996年には研究所「ノートル・ヨーロッパ」を創設した。この研究所は後にジャック・ドロール研究所となった。
1948年にマリー・ルパイユと結婚し、1950年に娘マルティーヌ(のちの政治家マルティーヌ・オブリー)、1953年に息子ジャン=ポールが生まれた。息子は29歳で白血病により亡くなっている。1989年にアストゥリアス皇太子賞、1992年にカール大帝賞、1997年にエラスムス賞、1998年にカタルーニャ国際賞などを受けた。2023年12月27日の朝、パリの自宅で98歳の生涯を閉じた。
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