HISTORICAL PERSON · 紀元前550年代没

ソロン

アテナイの政治家・立法者・詩人。詩で士気を高めてサラミス島をめぐるメガラとの戦いに勝ち、紀元前594年頃アルコーンとして改革を行い、民主主義の基礎を築いたと評される。七賢人の一人。

生涯
紀元前550年代没
死亡地
イギリス連邦(ニコシア地区 / キプロス島)
出生地
アテナイ(アテナイ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ニコシア地区)

伝記

ソロンは、紀元前639年ごろに古代アテナイで生まれ、紀元前559年ごろに没したとされる政治家・立法者・詩人で、ギリシア七賢人の一人にも数えられる。政治・経済・道徳の衰退を食い止めようとして法の制定に努め、この一連の改革は「ソロンの改革」と呼ばれる。改革は短期間のうちに失敗したが、アテナイの民主主義の基礎を築いたものとして、しばしば高く評価されている。ただし紀元前6世紀前半のアテナイには文書や考古学的な史料が乏しく、主な典拠はヘロドトスやプルタルコスなど、ソロンの死からずいぶん後の作家に限られる。ソロン自身は自らの政治を弁護するために詩を残したが、断片として伝わるだけで、後世の作家に手を加えられたり、別人の詩が誤って彼の作とされたりした可能性が指摘されている。

一族は莫大な資産を持たなかったものの、アテナイでは貴族として知られていた。父はエクセスティデスとされ、それが確かならば血筋はアテナイ最後の王に連なる。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、兄弟のドロピデスはプラトンから6代さかのぼる先祖にあたり、プルタルコスによれば僭主ペイシストラトスとははとこの間柄だった。アテナイがメガラとサラミス島の領有を争った際には軍を率い、失敗が続くと島についての詩を書いて士気を高め、ペイシストラトスの支持も得て、紀元前595年ごろにメガラ軍に勝利した。その後、この領有の争いにスパルタが加わり、最終的に権利はアテナイに与えられた。

ディオゲネス・ラエルティオスによれば、紀元前594年にアルコーンに選ばれ、この任期中に改革を行った。当時のアテナイでは貴族と民衆の争いが長く続き、貧しい人々は借金の担保として自分と妻子を差し出し、返せなければ奴隷にされていたと、アリストテレス学派の著作は伝える。ソロンは全ての借金を帳消しにする計画を友人に話したが、それを知った友人たちは借金をして土地を買った。共謀を疑われたため、ソロン自身も同じ法に従い、自分の債務者を5タラントン(15タラントンともいわれる)の借金から解放したという。彼が仲裁者として選ばれたのは、市民の意見の不一致を平和的かつ公平に解決する知恵があると見られたからとされる。ソロンの法律は木の板に刻まれ、ドラコンの法律のうち殺人に関する規定を除いて破棄したが、今日残るのはプルタルコスらの引用と論評だけである。

改革の後は、法の撤廃を求められないよう10年の旅に出た。エジプトでは王アマシス2世に会い、プラトンの対話篇によれば、サイスの神殿で神官からアトランティスの話を聞いたとされる。キプロス島では王のための新首都建設を監督し、王は感謝してその地をソロイと名付けた。リュディアの都サルディスでは、自らを最も幸福な人間と思っていたクロイソスに、人は死ぬまで幸福であり続けるとは限らないと語った。クロイソスがその意味を悟ったのは、ペルシア王キュロス2世に敗れ捕虜となった後だったという。帰国後は、僭主になろうとするペイシストラトスに反対し、武装して家の前に立って市民に抵抗を呼びかけたが、効果はなかった。ペイシストラトスが力ずくで権力を握った直後、80歳で亡くなり、遺灰は本人の希望でサラミス島の周りに撒かれたと伝わる。逸話として、幼い甥が詩人サッポーの詩を朗誦するのを聞いたソロンが、歌い方を教えてほしいと頼み、なぜそんなことに時間を使うのかと問われて「死ぬ前に覚えるためだ」と答えたという話も、ストバイオスによって伝えられている。

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