伝記
アナクサルコスは、紀元前380年ごろに生まれ、紀元前320年ごろに没したギリシアの哲学者である。デモクリトスの学派に属し、トラキアのアブデラの出身とされる。ピュロンとともにアレクサンドロス大王に従ってアジアへ赴いた。その思想について伝わる報告からは、のちのギリシア懐疑派の先駆者であったことがうかがえる。
遠征が始まると、マケドニア軍に加わって大王の腹心の一人となった。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、全盛期は第110回オリンピア紀(紀元前340〜337年)にあたる。同じく大王の宮廷にいた哲学者カリステネスとは対立し、それは個人的なものにとどまらず思想上のものでもあったとされる。カリステネスは、彼が哲学者にふさわしい清貧を離れて富の蓄積に走り、大王の悪い性向を助長していると非難した。
アッリアノスによれば、大王を神として崇めることとプロスキュネーシス(平伏の礼)の導入を最初に提案したのは彼である。この礼はペルシアの習俗で、マケドニアの兵士には強い反発があった。紀元前327年、バクトラの宴席で、大王の前もっての了解のもと、彼は、テーバイのディオニュソスやアルゴスのヘラクレスよりも大王を神として敬うほうが正しいと説いた。大王は死後にどのみち神として敬われるのだから、生前から称えるべきだというのである。同意した者もいたが、カリステネスは激しい演説で反対した。紀元前328年にカリステネスは捕らえられ、流刑地で死んだ。その失脚を招いた主な敵の一人が、アナクサルコスだったともいわれる。しかし彼は、大王の神性を冷ややかに、ユーモアをもって見ていたとも伝えられる。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、大王がゼウス・アンモンの子だと主張した時、彼は流れる血を指して「これは血であって、神々の血管を流れるイコルではない」と言った。大王が病んだ折には、薬を嘲って「われらが神の望みは杯の底にある」と言ったとアエリアヌスは伝える。プルタルコスは、雷鳴の中で彼が「ゼウスの子はなぜこんなことをしないのか」と尋ね、大王が「友人たちを脅かしたくないからだ」と答えた逸話や、無数の世界があると聞いた大王が、まだ一つも征服していないと落胆した話を記している。
哲学についてはほとんど分かっていない。アトムを説いたデモクリトスと、弟子ピュロンの懐疑論をつなぐ人物とみなされ、犬儒派やキュレネ派と共通する倫理的特徴ももつ。セクストス・エンペイリコスによれば、彼は存在するものを舞台の背景画にたとえ、眠りや狂気の中で経験される印象に似たものと考えた。ピュロンが不可知論と判断停止という高貴な哲学を採ったのは、彼の影響だとされる。感覚によって真偽を区別しようとする努力は、無益であり幸福を妨げるとも説き、不確かな存在に対しては、無関心を養って幸福を追求するほかないと考えたらしい。著書『王たちについて』では、知識の広さは有益にも有害にもなり、場にふさわしいか考えずに語る者は、どれほど博識でも賢いとはいえないと述べた。
最期については、ディオゲネス・ラエルティオスが伝える。紀元前331年、テュロスでの宴席で、僭主を嘲る不適切な冗談を言ってキュプロスの僭主ニコクレオンの恨みを買った。のちに意に反してキュプロスに上陸させられると、ニコクレオンは彼を臼に入れて叩き殺すよう命じた。彼は耐え抜き「アナクサルコスの袋を叩いているだけだ、アナクサルコス自身は叩けない」と王を嘲った。舌を切ると脅されると、自ら舌を噛み切って僭主の顔に吐きかけたという。その不屈と満足から「幸福な人」(エウダイモニコス)と呼ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- Zoilus (紀元前319)
- ランプサコスのアナクシメネス (紀元前319)
- 恵王 (魏) (紀元前319年没)
- アルケタス (オロンテスの子) (紀元前319年没)
- アンティパトロス (紀元前319年没)
同じ地域に関係する人物
- ラウフ・デンクタシュ (2012年没)
- ウァレンティノス (160年没)
- アンリ2世 (1324年没)
- コノン (アテナイ) (紀元前392年没)
- プトレマイオス (紀元前56)