HISTORICAL PERSON · 493年没

オドアケル

476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、ゼノンからパトリキの地位を得てイタリアを統治したローマ軍の将軍。元老院の権威を復興させたが、テオドリックに敗れ、降伏後の宴席で暗殺された。

生涯
493年没
死亡地
イタリア共和国(ラヴェンナ県 / ラヴェンナ)
出生地
ローマ帝国(Pannonia Prima)
出典
世界地図
イタリア共和国(ラヴェンナ県)

伝記

オドアケルは、五世紀に活躍したローマ帝国の軍人である。433年ごろに生まれ、493年3月15日に没した。476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、イタリアの領主となった。兄弟に、東ローマ帝国の軍司令官オノウルフスがいる。

出自は不明で、ヘルール族ともスキリア族ともゴート人ともいわれ、実際にゲルマン人だったのかどうかさえ分からない。父はエデコとされ、フランス語版の資料は、母をスキリア人とみて、父がフン族の王アッティラの側近だったと記している。東ローマ帝国に属していた父が469年に戦いで敗死すると、彼はローマ市へ逃れ、470年ごろにローマ軍の将軍となった。472年には、ゲルマン人の将軍リキメルの下で、西ローマ皇帝アンテミウスの討伐にも加わった。特定の部族を率いる指導者ではなく、正規のローマ軍団を率いる将軍だったという。放浪中にノリクムで、聖人セウェリヌスから「将来あなたはイタリアで王になるだろう」と予言されたため、行き先をイタリアへ向けたという逸話も伝わる。

476年、彼は西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、元老院を通じて、「もはや西方担当の皇帝は必要ではない」とする勅書を、帝冠と紫衣とともに東ローマ皇帝ゼノンへ送った。ゼノンはロムルスを正当な皇帝とは認めていなかったので、この廃位を正当な行為と思い、功績のあったオドアケルに、貴族の地位とイタリアを統治する法的権限を与えた。ダルマティアで西ローマ皇帝を名乗るユリウス・ネポスも使者との会見に同席しており、ゼノンは彼を西の皇帝として受け入れてはどうかと提案した。元老院は反対したが、オドアケルは妥協し、金貨にネポスの名と肖像を刻んで忠誠を示したものの、彼をイタリアへ迎えることはしなかった。480年にネポスが何者かに殺されると、ゼノンがローマ帝国で唯一の皇帝となった。オドアケルは自ら皇帝になることも、傀儡の皇帝を立てることもできたが、そうしなかった。

ゼノンとオドアケルは、西ローマ皇帝の廃止後も元老院など西の政府機構を残し、古代ローマ式の統治を続けた。オドアケルはローマの法を厳格に実行して元老院と執政官の権威の復興に努め、大きな信頼を得た。自身はイタリアの守護者として軍官にとどまり、民政は元老院とローマ人の文官に任せたので、元老院議員は彼の支配を歓迎した。彼自身はアリウス派だったが、カトリック教会とも良好な関係を保ち、教皇フェリクス三世は彼の治世を賞賛した。対外的には、ヴァンダル王ガイセリックと交渉してシチリア島の一部を返還させ、487年には敵の王を降伏させて、連れ去られていたローマ市民を取り戻した。

ゼノンとの関係は、少なくとも488年までは良好だったようである。しかし同年、ゼノンは、オドアケルが反乱者イルスやレオンティウスを支持しているとして、ゴート人の将軍テオドリックに討伐を命じた。実際に密約があったとも、テオドリックを遠ざけるためにゼノンが濡れ衣を着せたともいわれる。テオドリックは翌489年からイタリアに侵入し、オドアケルは、イゾンツォの戦いとヴェローナの戦いで相次いで敗れ、ラヴェンナへ追い込まれた。三年にわたる包囲ののち、493年に降伏した。その後、降伏後の宴会の席で、配下の兵とともに暗殺された。兄弟のオノウルフスは矢で針鼠にされ、妻スニギルダと幼い息子テーラも捕らえられて処刑された。歴史家ギボンは、彼を戦術と政治の術に優れた英雄と評している。今日、彼のイタリア統治の開始を西ローマ帝国の「滅亡」と呼ぶことには、研究者から否定的な見解も出されている。

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