伝記
カンビュセス2世は、アケメネス朝ペルシア帝国の第2代王である。在位は紀元前530年8月から紀元前522年7月とされ、父キュロス2世の後を継いでエジプトを征服し、古代オリエントの統一を成し遂げた。母は王妃カッサンダネと伝わり、長男として生まれた。弟にスメルディスと、アルテュストネ、アトッサ、ロクサーナの三人の姉妹がいた。祖父も同名のカンビュセス1世で、この家系はアンシャンの王からペルシア一帯へ勢力を広げた支配者の系譜に連なる。
即位前の紀元前538年3月27日、バビロニアの新年祭に加わり、マルドゥク神の神殿で王笏を受けた。同じ年の4月に父から北バビロニアの統治を任されたが、12月には理由の分からないまま解任され、その後もバビロンやシッパルに住んだ。バビロニアの記録では、紀元前538年から537年にかけて父子がともに「バビロン王、諸国の王」の称号を帯びており、遠征より数年前に共同統治者とされていたことがうかがえる。紀元前530年、父がマッサゲタイへの遠征に出る際にも共同統治者に任じられた。王太子だったため遠征中にペルシアへ送り返され、父が戦死すると遺体をパサルガダエへ運んで、あらかじめ用意された墓に葬ったとされる。こうして単独の王となったが、年代記によれば、即位に際して反対はなかったという。
彼が取りかかったのは、近東で最後に残った有力な独立国エジプトの征服である。これは父の時代からの構想であり、闇雲な世界征服の欲望ではなかったと、歴史家ブリアンは述べる。当時のエジプト王はアマシス2世で、同盟者のサモスの支配者ポリュクラテスは、やがてエジプトを裏切ってカンビュセスに接近した。ハリカルナッソスのファネスもアマシスのもとを去ってペルシア側に加わり、カンビュセスはキプロスを奪ってアマシスに痛手を与えた。ヘロドトスなどは、遠征の発端としてアマシスが娘の代わりに前王の娘ニテティスを送った話も伝える。紀元前525年、アマシスの子プサムテク3世が王位を継いだ直後に遠征が始まった。アラブ人の族長と結んで砂漠を越える水を確保し、ペルシウムで勝ってメンフィスを陥落させ、プサムテク3世を捕らえて第26王朝を滅ぼした。カンビュセスはサイスの神殿で即位式を行ってエジプト王となり、続いてリビア人とキュレネなどのギリシア人都市も服属した。一方、カルタゴ遠征はフェニキア人が同族への攻撃を拒んで行われず、シワ・オアシス遠征は失敗し、クシュ遠征は北部を征したものの食糧不足で撤退した。
ヘロドトスは彼を、酒に溺れて狂った暴君として描き、聖牛アピスを殺し、弟や妊娠中の妻を殺したと伝えるが、この話にはペルシアやエジプトで広まった誇張や捏造が含まれると考えられている。エジプトの記録では、アピスの死に際して花崗岩の棺で埋葬したとされる。
紀元前522年3月、エジプトにいた彼のもとへ、弟スメルディスを名乗る者がペルシア本土で反乱を起こしたとの報が届いた。古代の記録は、この人物を、スメルディスになりすましたマゴス神官ガウマータとする。カンビュセスは帰国の途中で亡くなったが、ヘロドトスによれば、馬に乗ろうとして剣が太ももに刺さり、約20日後にアグバタナで没したという。ダレイオス1世は碑文で「自らの死によって死んだ」と述べ、自然死とも自殺とも事故死とも解釈される。ダレイオスが王位を得る前段階として暗殺したとの説もある。子はなく、自称スメルディスは間もなくダレイオスらに殺され、ダレイオスが王となった。
同じ年に亡くなった人物
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