伝記
ムハルヒルは、イスラム以前のアラブの詩人・戦士で、本名をアブー・ライラー・ウダイ・イブン・ラビーアという。ナジュドに生まれ、443年から531年まで生きたとされる。ムハルヒルは「詩を細やかに織る者」を意味する異名で、ほかに「ズィール・サーリム」とも呼ばれた。タグリブ族を率い、40年に及んだバスース戦争で重きをなした人物である。若いころは戦いよりも遊興、詩、恋に生き、容姿が美しく弁舌も巧みだったという。酒と音楽と女性との交わりを好み、そのために兄のクライブから「ズィール・アン・ニサーイ(女性たちの仲間)」と、半ば非難をこめて呼ばれた。「ズィール」の通称はここに由来する。この時期の彼は、部族のなかで政治的にも軍事的にも重い人物とは見られていなかった。それでも詩人としての評判は高く、古典的な史料ではアラビア語のカスィーダ(頌詩)の形式の初期の発展に寄与したとも語られる。初期の詩は恋や部族の誇り、自己表現を主題としていた。
転機は、兄クライブがジャッサース・イブン・ムッラに殺されたことだった。ムハルヒルは怒りに立ち上がり、兄の仇を討つまで酒と遊びを断った。こうして遊興の人は、部族の中心となる指導者であり復讐者へと変わり、バクル族とタグリブ族の有名な争いが長年続くことになる。彼はタグリブ族の指導者としてバスース戦争の主要な人物の一人となった。戦争の終わり近い戦いのひとつであるキダーの日に、ムハルヒルはハーリス・イブン・アッバードに捕らえられた。ハーリスは相手が誰かを知らず、ウダイ・イブン・ラビーア、つまりムハルヒルの居場所を教えれば命を助けると約束した。ムハルヒルが「ウダイの居場所を教えたら、私の命は助かるのか」と尋ね、ハーリスが同意すると、「私がウダイだ」と答えた。ハーリスは彼の前髪を切り落として解放した。
詩は人々に復讐を促す手段でもあった。彼は兄を悼む詩を絶えず詠み、自分の内にある悲劇を部族のなかでも生々しく保とうとした。兄を嘆く詩の多くは、涙と悲しみを描き、兄に呼びかけてその美徳や気前のよさ、勇敢さをたたえている。「風がなければ、ヒジュルの人々は、剣が盾を打つ音を聞くだろう」という詩句も彼のものとされる。
晩年はイエメンに赴き、ジャンブ族のもとに身を寄せた。マディヒジュ族のムアーウィヤ・アル=ハイル・イブン・アムル・アル=ジャンビーが、娘のウバイダ(別の伝えでは妹)に求婚した。ムハルヒルは初め断ったが、やむなく承諾した。このときすでに老いて衰えており、まもなく死んだという。別の伝えでは、襲撃の供にと買った二人の奴隷が彼にうんざりし、荒れ地を旅する途中で殺したとされ、さらにバクル族の者に殺されたという説もある。いずれにせよ、その死でバスース戦争の出来事は幕を閉じた。
ムハルヒルの名は、ぼろぼろの服を着ていたからとも、詩の中で「ハルハラ」の語を用いたからとも、詩を「ほぐして」洗練させ、やわらかくしたからともいわれる。男の子はなく、長女ライラーにちなんでアブー・ライラーと呼ばれた。ライラーはタグリブ族のクルスーム・イブン・マーリクに嫁ぎ、ムアッラカ詩の詩人として名高いアムル・イブン・クルスームを産んだ。娘のウバイダはムアーウィヤに嫁ぎ、ウバイダ氏族の母となった。娘の名には諸説あるが、娘は二人だけという点では一致している。姪のヤマーマ・ビント・クライブは、彼の死を悼む詩を詠んだと伝えられる。
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