伝記
崇峻天皇は、伝統的な皇統の順では第32代の天皇である。在位は587年から592年までとされる。即位前の名は泊瀬部皇子(初瀬部若雀)で、欽明天皇の十二番目の子とされ、母は蘇我稲目の娘である。先代の用明天皇の異母弟にあたる。生年は定かでなく、520年ごろともされ、没したときの年齢は72歳と伝えられるが、即位したときの年齢を67歳とする説明もある。倉梯宮(奈良県の倉橋)を宮としたと伝えられる。
用明天皇が亡くなったとき、後継をめぐって争いが起こった。物部氏は、蘇我氏と対立していたため、欽明天皇の別の子である穴穂部皇子と結び、これを皇位に就けようとした。しかし、蘇我氏の長となっていた蘇我馬子が、物部氏の長である物部守屋を討ち、この争いは物部氏の衰えにつながった。馬子は崇峻天皇を皇位に就けた。天皇は、蘇我氏と、異母姉で敏達天皇の后だった推古天皇の支持を得て即位したとされる。当時の称号は「天皇」ではなく、「治天下大王」のようなものだったと考えられている。
時がたつにつれ、天皇は馬子の権勢に不満を抱き、これを除こうとしたといわれる。ある日、猪を殺して「この猪を斬ったように、憎いと思う者を斬りたい」と述べたと伝わる。これを知った馬子は怒り、あるいは先に討たれることを恐れて、592年に東漢直駒に天皇を殺させたとされる。『日本書紀』の崇峻天皇五年十一月条によれば、馬子は群臣を偽り、「今日、東国の調を奉る」と言い、駒に天皇を弑させた。この日のうちに天皇は倉梯岡陵に葬られたという。この事件のあと、皇位はしばらく空いたが、593年に推古天皇が即位して収まった。
陵は、宮内庁により奈良県桜井市倉橋の倉梯岡陵に治定されている。形は円丘とされる。ここは倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた小字「天皇屋敷」にあたり、天皇の位牌を祀る金福寺があったことから陵地として決められたという。1876年には奈良県十市郡倉橋村にあった雀塚という古墳がいったん陵とされたが、1889年に現在の陵に改められた。しかし根拠には乏しく、円丘は観音堂の土壇の遺構ではないかとの指摘もあり、古墳ではない可能性が指摘されている。近年では、桜井市倉橋にある巨大な方墳、赤坂天王山古墳を陵とする森浩一の見解が有力視されている。同古墳は6世紀末から7世紀初頭の築造で、東西45.5メートル、南北42.2メートル、高さ約9.1メートルの規模をもち、全長17メートルの横穴式石室を備える。斑鳩町の藤ノ木古墳の被葬者を天皇とする説もある。
皇居の皇霊殿では、ほかの歴代天皇や皇族とともに天皇の霊が祀られている。天皇を描いた作品には、1962年の日本テレビ『夢殿』や、2001年のNHK『聖徳太子』がある。