伝記
ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォンは、フランスの博物学者であり、数学者、植物学者である。1707年9月7日にコート=ドール県のモンバールで生まれ、1788年4月16日にパリで没した。科学アカデミーとアカデミー・フランセーズの両方の会員で、啓蒙の精神に連なる人物とされる。その理論は、ラマルクやダーウィンらを含む、2世代の博物学者に影響を与えたといわれる。
父バンジャマン・ルクレールは、国王の顧問で、モンバールの塩倉の長、ブルゴーニュ高等法院の顧問を務めた。母はアンヌ=クリスティーヌ・マルラン。名のジョルジュは名付け親の母方の大叔父に、ルイは祖父にちなむ。1717年に父は、母方の大叔父の遺産を受けた妻と息子の財産によって、モンバール近郊のビュフォンの領地を買い、まもなく一家はディジョンに移った。イエズス会のゴドラン学寮で学び、父の意向でディジョン大学の法学部に入り、1726年に学位を得た。しかし科学を好み、家族の不満をよそに、1728年にアンジェの大学へ移り、数学と植物学に没頭し、ニュートンやユークリッドを読み、医学の講義も受けた。だが決闘でクロアチア人の若い将校を殺し、あわただしく大学を去ることになった。その後、イギリスの若い貴族キングストン公と知り合って友人となり、その教師の博物学者とともに、フランス南部やイタリア、イギリスをめぐるグランドツアーに加わった。
1731年に母が亡くなって旅を切り上げ、翌年パリに出た。年を取ってから若い娘と再婚した父から離れたい思いもあった。父と争って財産を自由に使えるようにし、モンバールには、動物園や実験室、書斎を備えた館を建てた。25歳で成功を決意し、ビュフォンと署名するようになった。はじめは数学で名をあげ、確率論に微分と積分の概念を導入して、科学アカデミーに論文を出した。スイスの数学者ガブリエル・クラメールと手紙を交わし、モンテカルロ法のルーツとなった「ビュフォンの針」の問題で知られる。ヴォルテールらの知識人と交流し、1733年には海軍大臣モールパの求めで、造船に使える木材の研究を行い、多くの実験をして詳細な報告をまとめた。27歳でフランス科学アカデミーに入会した。
1739年、32歳のとき、モールパの後援で王立植物園(現パリ植物園)とその博物館の管理人に任命された。彼が園長を務める間に、植物園は王の庭園から研究機関、博物館、公園へと姿を変え、世界中の植物が集められた。1740年にロンドン王立協会のフェローに選ばれ、1773年には伯爵に叙された。
主著は『一般と個別の博物誌』で、1749年から1778年にかけて、1日12時間も作業して取り組んだが、予定された全50巻のうち、生前に刊行できたのは36巻にとどまった。最初の15巻は、1749年から1767年にかけて、ドーベントンらの協力を得て刊行された。1778年の『自然の諸時期』の巻では、惑星は太陽に彗星が衝突して形成されたという説を述べ、地球の年齢を、鉄の冷却率から75,000年と推定した。これは、聖書の記述から天地創造を紀元前4004年と計算したアッシャー司教の説を否定するものだった。ノアの洪水伝説も否定したが、自らが無神論者であることは否定した。この書はベストセラーとなり、科学思想の発展に影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ホワイトハースト (1788年没)
- トマス・ゲインズバラ (1788年没)
- サロモン・ゲスナー (1788年)
- ジョヴァンニ・アントニオ・スコポリ (1788年没)
- カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (1788年没)
同じ地域に関係する人物
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- フィリップ・ルボン (1804年没)
- ジルベール・ベコー (2001年没)
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