HISTORICAL PERSON · 紀元前480年没

レオニダス1世

スパルタ王。テルモピュライの戦いで300人のスパルタ兵と共にペルシャの大軍に立ち向かい、壮絶な最期を遂げてスパルタ随一の英雄とされた。

生涯
紀元前480年没
死亡地
ギリシャ共和国(中央ギリシャ / テルモピュレ)
出生地
ギリシャ共和国(スパルタ)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(中央ギリシャ)

伝記

レオニダス1世は、古代ギリシアの都市国家スパルタの王で、二つある王家のうちアギス朝に属した。在位は紀元前489年から紀元前480年までとされるが、即位の年は前後するともいわれる。生年は不明である。父は先代の王アナクサンドリデスで、母は父の姪にあたる女性だったとヘロドトスは伝える。この母は長く子ができず、監督官たちは離縁を勧めたが王は拒み、第二の妻を迎えることを認められた。その妻が先に長男クレオメネスを産み、一年後に第一の妻が次男ドリエウスを産み、その後にレオニダスが生まれた。兄弟の名を並べると三男にあたり、本来は王位に遠い立場だった。

父は紀元前520年頃に世を去り、長兄クレオメネス1世が王位を継いだ。次男ドリエウスはスパルタ人が異母兄を選んだことに憤り、国を出てアフリカに植民地を築こうとして失敗し、さらにシチリアで財を求めたが、初めは成功したものの殺害された。クレオメネスも狂気を理由に退けられて亡命し、のちに世を去った。こうして王位はレオニダスに巡ってきた。彼はクレオメネスの娘ゴルゴーを妻としていた。兄たちとの関係は不明である。国民としての訓練を受けた人物であり、プルタルコスは、王であること以外に我々より優れた点はないと言われて、自分が優れていなければ王ではないと答えたという逸話を伝えている。

紀元前481年、ペルシアの二度目の侵攻に備えるギリシア連合軍の指揮を担うことになった。スパルタの武名だけでなく、指揮官としての力量が期待されたためと考えられている。紀元前480年、彼はテルモピュライの隘路でクセルクセス1世の大軍を迎え撃った。ヘロドトスによれば、デルポイの神託は王が死ぬか国が滅びるかを告げており、覚悟を決めた彼は他の都市の兵を帰したとされる。この年はカルネイア祭とオリュンピア祭が重なり、大軍を送れなかったともいう。率いたのはスパルタ重装歩兵300人を含む連合軍7,000で、出陣前には妻に、よき夫と結婚してよき子を産めと言い残したと伝わる。狭い地形のためペルシア軍は騎兵を展開できず、戦いは数日に及んだ。

やがて内通者が山中の裏道を教え、迂回部隊がギリシア軍の背後に迫った。連合軍の多くは撤退したが、スパルタ軍はその場に残り、テスピアイ軍とテーバイ軍もとどまった。殿としての判断とも、撤退しないというスパルタの掟に従ったためとも言われる。投降を促されたレオニダスは、来て取ってみよと答えたと伝わる。彼は広場まで打って出て戦い、その最中に倒れた。遺体をめぐって激戦となり、ギリシア軍は王の遺体を取り戻して敵を四度退けたという。しかし背後から迫られると小丘に陣を敷き、槍が折れれば剣で、剣が折れれば素手や歯で戦い、最後は矢の雨に倒れ、テーバイ兵を除いて全滅した。クセルクセスは遺体の首を刎ねて晒すよう命じたとされる。王位は息子プレイスタルコスが継いだ。

この抵抗によりアテナイは時間を稼ぎ、サラミスの海戦でペルシア海軍に勝つことができたとされる。テルモピュライにはのちにレオニダスの像と碑が建てられ、旅人よ、ラケダイモンの人々に伝えよという句が刻まれたと伝わる。プラタイアの戦いを前に、王族パウサニアスはレオニダスの仇を討てという神託を得て決意を固めたという。近代には映画『スパルタ総攻撃』やグラフィックノベル『300』とその映画化などの題材ともなった。

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