HISTORICAL PERSON · 紀元前347没

Lysis of Taras

ピタゴラスの弟子と伝えられるギリシャの哲学者。迫害を逃れてテーバイへ移り、エパメイノンダスの師になったとされる。

生涯
紀元前347没
死亡地
ギリシャ共和国(中央ギリシャ / テーバイ)
出生地
イタリア共和国(ターラント)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(中央ギリシャ)

伝記

タラスのリュシスは、古代ギリシアのピタゴラス学派の哲学者である。生涯は不明な点が多く、紀元前5世紀ごろに活動したとされ、没年は紀元前390年とも紀元前347年ともされる。南イタリアのアプリア地方にあるギリシア植民市タラス(タレントゥム)の出身で、ピタゴラスの友人であり弟子でもあったと伝えられる。

当時、南イタリアの各植民市に広がっていたピタゴラス学派の共同体は、政治への積極的な関与や仲間内の結びつきの強さから、評判が芳しくなかった。しばしば政治的な動機による報復を招いたという。クロトンのミロンの家は学派の重要な拠点で、各市で取るべき政治行動を話し合う場だった。クロトンの有力市民キロンは生まれも名声も富も備えていたが、気性が荒く暴力的だったとされる。キロンは自らの政治的地位を固めようとして学派への入門を求めたが、ピタゴラスは人柄を知って入門を断った。キロンは学派の政敵に加わり、復讐を企てた。アリストクセノスやイアンブリコスの記述によれば、キロンに率いられた政敵がクロトンとメタポンティオンの学派の拠点に火を放ち、南イタリアのピタゴラス派の多くが命を落とした。時期は紀元前440年から415年のあいだとも推定される。このとき、いずれもまだ若かったリュシスとタラスのアルキッポスは生き延びた。

この迫害には時期をめぐる混乱がある。紀元前500年ごろ、ピタゴラス自身が死んだころの反ピタゴラス派の動乱と、その約50年後の動乱とを、注釈家などが区別せずに扱ったらしい。リュシスがピタゴラスの弟子でありながらエパメイノンダスの師でもあったとすると、年代の上で大きな無理が生じるが、この混同がその原因を説明するかもしれないと考えられている。難を逃れたリュシスとアルキッポスはギリシアのテーバイに渡り、クロトンのピロラオスのもとに身を寄せた。テーバイでリュシスは教師となり、多くの若者を教えた。なかでもエパメイノンダスは、のちにテーバイの傑出した政治家・将軍となり、テーバイの覇権の端緒を開き、スパルタの支配からテーバイを解放した人物である。エパメイノンダスはリュシスを最大級の敬意をもって遇したという。

プルタルコスが記録した当時の口伝によれば、リュシスは晩年をエパメイノンダスの父ポリュムニスのもとで過ごし、ポリュムニスの子らすべてから第二の父のように家族の待遇を受けた。リュシスが亡くなると、彼を深く敬っていたクロトン出身の仲間が何人も、遺体を引き取って故郷に葬るためにわざわざテーバイを訪れたという。

著作については、ディオゲネス・ラエルティオスの記述を通じて断片的に知られるにすぎない。『ピタゴラスへの書簡』と呼ばれる文書があるが、内容の詳細は伝わっていない。『ピタゴラスの黄金の詩』は、フランスの翻訳家ファブル・ドリヴェがリュシスの作と主張したが、より近年の研究者コワルスキは、リュシスを含む複数の人物による共作の可能性を推測した。ピタゴラスの作と考えられた書簡類にも、今ではリュシスの作とされるものがある。また、ディオゲネス・ラエルティオスはリュシスからヒッパソスにあてた書簡を引き、ダモに関する記述の根拠としているが、この書簡は偽作であることが疑いない。『ヒッパルコスへの書簡』も長くリュシスの作とされ、ルネサンス期に人気を博した。1499年にヴェネツィアのアルドゥス・マヌティウスが初版を出し、15世紀にはベッサリオン枢機卿が訳し、16世紀にはメランヒトンとコペルニクスもラテン語から訳した。コペルニクスはこの書簡の一節に影響され、自らの発見の公表をためらったとされる。

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