伝記
ジョルジュ・ジャック・ダントンは、1759年10月26日にフランス王国シャンパーニュ地方のアルシ=シュル=オーブで生まれ、1794年4月5日に処刑されたフランス革命の代表的な政治家である。パリ・コミューン助役、国民公会議員、司法大臣などの要職を歴任した。父は裕福ではないが立派な弁護士で、母はマドレーヌ・カミュといった。赤ん坊のころに雄牛に襲われ、数年後には天然痘にかかり、顔に醜い痕が残ったという。トロワの神学校や寄宿学校で学び、授業中の体罰に反対して弁舌をふるい、校長に体罰を禁止させたという逸話が伝わる。
1780年にパリへ出て法律を学び、1783年に弁護士の試験に受かり、1787年には王室顧問会議付きの弁護士となった。同年にカフェの主人の娘ガブリエル・シャルパンティエと結婚し、3人の息子が生まれた。モンテスキューやディドロの著作を愛読し、英語やイタリア語も習得していたという。当初は「ものやわらかで、控えめで無口」だったが、1789年春、パレ・ロワイヤルに集まる群衆に演説するうちに、力強い声と弁舌で名を知られ、「雷鳴の人」と呼ばれた。7月13日には市民を扇動し、革命に参加してジャコバン・クラブにも加入した。1790年4月にコルドリエ・クラブを創設したが、シャン・ド・マルスの虐殺に巻き込まれて一時イギリスに亡命した。
パリ・コミューンの助役に選ばれ、1792年には民衆を扇動してテュイルリー宮殿を襲撃させた(8月10日事件)。これを経て発足したジロンド派の内閣に、司法大臣として急進派でただ一人起用された。対外戦争が敗戦続きで、9月2日にヴェルダンが降伏すると、「勇気が、常に勇気が、さらに勇気が必要なのだ」との演説で国民を鼓舞した。しかし九月虐殺は防げなかった。国民公会議員にも当選し、ルイ16世の裁判では処刑に賛成した。1793年春には革命裁判所や公安委員会の創設に貢献し、モンターニュ派の指導者となった。だが、自身の汚職疑惑や、友人の将軍デュムーリエの寝返りで窮地に陥り、公安委員会を退いた。ガブリエルは同年2月に急死した。
その後は故郷に帰り、11月にパリに戻ると、カミーユ・デムーランとともに恐怖政治の廃止や反革命容疑者の釈放を呼びかけた。エベールらの反キリスト教運動には、ロベスピエールと協力して対抗したが、エベール派の粛清後は、ロベスピエールや公安委員会との対立が表に出た。東インド会社の清算をめぐる横領事件が発覚し、親しい議員が逮捕されたことも、疑いを深めた。1794年3月30日深夜、ダントンらが逮捕された。裁判では持ち前の雄弁をふるって判事も無罪に傾きかけたが、弁論を妨害されるなど圧力がかかり、4月5日に王政復活などを企てた罪で死刑の判決を受けた。ギロチンへ向かう荷馬車がロベスピエールの家の前を通ると「ロベスピエール、次はお前の番だ」と叫び、同日処刑された15人の最後に、堂々とした態度で刑場に立った。最後の言葉は「民衆に俺の頭を見せるのを忘れるなよ。これだけの頭は滅多に見られる物じゃないからな」であった。
存命中から流血や金銭問題を非難され、死後も19世紀中頃まで評価は低かったが、後半には再評価が進み、第三共和政期には最も偉大な英雄とされ、1891年にパリに銅像が建てられた。しかし歴史家マティエは史料からダントンの汚職を立証し、評価は分かれている。
同じ年に亡くなった人物
- アントワーヌ・ラヴォアジエ (1794年没)
- フランソワ=ジョアシャン・ド・ピエール・ド・ベルニ (1794年没)
- エドワード・ギボン (1794年没)
- カスパー・ヴォルフ (1794年没)
- シャイフ・マンスール (1794年)
同じ地域に関係する人物
- ギヨーム・アポリネール (1918年没)
- デビッド・クーパー (精神科医) (1986年没)
- Louis Leger (1923年没)
- ジョセフ・アヴェド (1766年没)
- シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ (1869年没)