伝記
アブー・ターリブは、メッカのクライシュ族ハーシム家の当主で、イスラームの開祖ムハンマドの叔父であり、育ての親でもある人物である。生年は549年ともおよそ535年ともいわれ、没年は619年頃、あるいは619年から620年頃とされる。父は先代のハーシム家の長アブド・アル・ムッタリブ、母はマフズーム家出身のファーティマ、同母の兄弟にムハンマドの父アブドゥッラーがいる。第4代正統カリフのアリーは彼の息子である。本名はアブド・マナーフといい、通称のクンヤで知られる。
幼くして両親を失ったムハンマドは、祖父アブド・アル・ムッタリブに引き取られたが、8歳頃に祖父とも死別し、叔父アブー・ターリブのもとで育てられることになった。叔父は甥を非常に可愛がり、隊商の旅にも連れて行き、夜も隣で寝かせたと伝えられる。ムハンマドが12歳頃のとき、シリアへ向かうクライシュ族の隊商に加わったとする伝承がある。叔父は初め甥をメッカに残すつもりだったが、連れていくことにしたという。隊商が通ったボスラでは、キリスト教の修道士がムハンマドに将来の使命のしるしを見いだし、叔父にその身を守るよう忠告した、という話も語られるが、その後の展開については伝えが分かれる。
アブー・ターリブは、父から巡礼者への給水と食事の提供という役目を受け継いだ。しかし家族を大切にする人柄で、大家族を抱えて家産は減り、一家は苦しくなった。そのため役目を弟のアッバースに譲ったが、ハーシム家の当主の座は死ぬまで保った。ムハンマドが成人し、のちに彼が富裕な商人ハディージャのもとで働くようになったのも、叔父の勧めがきっかけだったという伝承がある。ハディージャと結婚して暮らしが安定したムハンマドが、叔父の子アリーを引き取ったのは、叔父の苦しい家計を助けるためでもあったといわれる。
ムハンマドが預言者としての活動を始めると、アブー・ターリブは一族の中で最も有力な保護者となった。ムハンマドと息子アリーがひそかに礼拝しているのを知ると、先祖の宗教は捨てないが、甥は守り続けると告げたとされる。偶像崇拝への批判が公然となると、クライシュ族の代表は幾度も彼を訪ね、甥を制止するよう迫った。だが彼は保護を取り下げなかった。伝承には、クライシュ族が別の若者を養子に差し出す代わりにムハンマドを引き渡せと求め、叔父が、息子を差し出して養わせ、こちらの息子を殺すつもりかと憤って退けた話がある。彼はハーシム家とムッタリブ家の人々を動員して甥を守り、両家は、ムハンマドの教えを信じるか否かにかかわらず、一族の連帯からこれに応じたが、アブー・ラハブだけは例外であった。両家に課された排斥の期間、人々が集まった谷は彼の名にちなんで呼ばれた。
アブー・ターリブは排斥が終わってまもなく、ヒジュラの約3年前に没した。ハディージャの死とほぼ同じ時期で、ムハンマドはメッカでの主な保護者を相次いで失い、この年は「悲しみの年」と呼ばれる。彼は生涯、信仰告白をせず、多神教徒のまま世を去ったというのがスンニー派の主流の理解である。臨終に立ち会った者は、彼が唇を動かして告白したと証言したが、ムハンマドは聞こえなかったと答えた。シーア派は、彼が信者だったが信仰を隠していたとみなす。彼は詩人としても数えられ、ムハンマドの擁護をうたったとされる詩が伝わるが、その一部は真作かどうか疑われている。
同じ年に亡くなった人物
- カンタベリーのラウレンティウス (619年没)
- ハディージャ・ビント・フワイリド (619年没)
- ヨハネス・モスコス (619年)
- 始畢可汗 (619年没)
- John the Merciful (619年(推定))
同じ地域に関係する人物
- マンスール (775年没)
- Sumayyah bint Khayyat (615年没)
- ファズラー・ラーマン・カーン (1982年没)
- Haciye Hosyar Kadin (1849年没)
- アッバスグル・バキハノヴ (1847年没)