伝記
始畢可汗(シビル・カガン)は、東突厥の可汗である。生年は不明で、619年に没した。始畢可汗は称号であり、姓は阿史那氏、名は咄吉世という。『旧唐書』や『新唐書』では咄吉とされる。啓民可汗の子で、先代の可汗を継いだのは大業5年(609年)とも、611年ともいわれる。
大業5年、啓民可汗が病死すると、国人たちは子の咄吉世を立てて始畢可汗とした。始畢可汗は隋に上表して、父の妻だった義成公主を娶りたいと願い出て許され、レビラト婚の風習に従って義成公主を妻とした。613年から615年にかけては、中国国内の農民反乱勢力を積極的に支援していたという。隋の政治家裴矩は、始畢が強大になって制御しにくくなったと考え、煬帝に勧めて、始畢の弟の阿史那叱吉に公主を嫁がせることを申し出させた。叱吉は恐れてこれを断った。のちに裴矩は、始畢の参謀の史蜀胡を馬邑に誘い出して殺害し、謀反を企てていたからだと言い立てた。始畢はその告発が偽りだと知っており、隋に背く決意を固めたとされる。
大業11年(615年)1月、始畢可汗は東都に使者を送って朝貢した。ところが同年8月には、数十万の騎馬軍団を率いて隋に侵入し、北辺を巡幸中の煬帝を雁門で包囲した。煬帝一行は郡の中心地に逃れ、9月11日からその地を突厥軍に囲まれた。煬帝は恐れて泣いたとも伝わる。宇文述は、精鋭の騎兵数千を選んで包囲を破るよう勧めたが、蘇威や樊子蓋が思いとどまらせた。皇后の兄の蕭瑀の進言により、突厥の本拠で軍事を指揮していた義成公主に使者が送られた。公主は、北から攻められていると始畢に偽って知らせ、包囲は解かれたという。煬帝は詔によって諸郡の兵を動かし、方々から援軍が至って突厥軍は撤退した。これにより隋との朝貢は途絶えた。翌大業12年(616年)、始畢は馬邑を略奪したが、唐国公李淵が馬邑郡太守の王仁恭とともに突厥軍を攻撃して敗走させた。
隋末の動乱で、竇建徳・王世充・薛挙・李軌・劉武周・梁師都・高開道などの反抗者は、みな東突厥に称臣し、始畢可汗から称号を受けた。梁師都には大度毗伽可汗の称号を与えて狼頭の旗を授け、劉武周には定楊可汗の称号と狼頭の大旗を授けたという。大業13年(617年)5月、李淵は劉文静を始畢のもとに遣わして、呼応して挙兵するよう求めた。始畢は、骨咄禄特勤の康鞘利らを遣わして馬千匹を献上させ、2千騎の援軍を出した。始畢は李淵の意図を問い、劉文静は、挙兵は不当な皇帝を廃するためであり、都に入れば土地と人民は唐公のもの、金銀や絹・宝物は可汗のものになると答えた。始畢は喜んだが、心から支援する気持ちは強くなかったとされる。李淵は突厥の兵よりも馬を欲していたため、劉文静の外交を称えたという。始畢の弟の阿史那叱吉は、唐の軍に従って長安へ向かった。劉武周は汾陽宮の宮女を始畢に贈り、返礼に馬を受け取ったという。五原郡の長官張長遜も618年に始畢に服属し、可汗から称号を受けた。武徳元年(618年)に唐が建国されると、始畢は骨咄禄特勤を来朝させ、高祖は太極殿で宴を催した。
武徳2年(619年)2月、始畢可汗の兵は黄河を渡って夏州に至り、梁師都と会して、侵入と略奪を謀った。劉武周の騎兵500余騎を授かり、太原に攻め入ろうとしていた。この月、始畢可汗は死去した。子の什鉢苾はまだ幼かったため泥歩設とされ、幽州の北の東寄りに住まわされ、弟の俟利弗設が立って処羅可汗となった。
同じ年に亡くなった人物
- 恭帝侑 (619年没)
- アブー=ターリブ (619年没)
- カンタベリーのラウレンティウス (619年没)
- ハディージャ・ビント・フワイリド (619年没)
- ヨハネス・モスコス (619年)