伝記
ズバイル・イブン・アウワームは、594年ごろにマッカで生まれ、656年に没したイスラム教初期の人物で、預言者ムハンマドの教友(サハーバ)の一人に数えられる。クライシュ族のアサド家の出身で、父アウワームはムハンマドの妻ハディージャの兄弟、母サフィーヤはムハンマドのおばにあたり、ズバイルはムハンマドの従兄弟であり義兄弟でもあった。正統カリフ・アブー・バクルの娘アスマーを妻とした。
幼いころに父を失い、母サフィーヤは彼を「戦いで大胆になるように」と厳しく打ったと伝えられる。まだ少年のころ、大人の男と争って、相手の手を折るほど激しく打ちのめしたという逸話も残る。16歳でイスラームに入ったとされ、アブー・バクルの呼びかけに応じた最初期の信徒の一人で、成人男性の入信者としては4番目か5番目と言われる。615年にはエチオピアへの最初の移住者の一人となり、しかも移住団の中で最年少だった。エチオピア王ナジャーシーに対して反乱が起きると、不安を抱いた仲間たちに頼まれ、彼はふくらませた水袋でナイル川を泳ぎ下って戦場に近づいた。ナジャーシーの勝利を見届けて泳ぎ戻り、吉報を伝えたという。別の伝えでは、紅海を渡ったとされる。マッカ滞在中は、アブー・バクルやタルハらとともにクルアーンの全節を暗記する役目を分担したという。622年にはマディーナに移住し、抜け目のない商人として、交易の路を移住とともにマッカからマディーナへ切り替えた。
ムハンマドのもとで、ほぼすべての初期の戦いに加わった。624年のバドルの戦いでは、アリーとともに斥候を務め、この戦いの3人の主な指揮官の一人だったともいわれる。ウフドの戦いで戦況が悪化し多くが逃げた際にも、ムハンマドのそばにとどまった数少ない一人だった。ハンダクの戦いでの軍功を理由に、ムハンマドは彼に「ハワーリー(使徒)」の称号を与えたと伝えられる。629年にはナディール族の戦士ヤースィルを一騎討ちで破り、ハイバルの攻略後には18に区画された土地の1つを授かり、630年のマッカ攻撃では、ムハンマドの命令で下手から攻めた。
ムハンマドの死の際、ズバイルはアリー、タルハとともにファーティマの家に立て篭もり、新たな指導者を選ぶ場には姿を見せなかった。ウマルの時代の640年7月には、エジプト遠征のアムルのために1万人の兵を率い、フスタートの包囲では梯子をかけて城壁を登り、先陣を切った。644年、ウマルが死に際して後事を託した6人の一人となり、協議では自らの権利を放棄してアリーを推薦したが、最終的にウスマーンがカリフとなった。
ウスマーンの死後、ズバイルは一度はアリーの即位を認めたが、小巡礼を口実にタルハとともにマディーナを脱出し、マッカにいたムハンマドの寡婦アーイシャと合流した。3人はアリーにウスマーン暗殺の責任を問い、656年12月、バスラ近郊でアリー軍とラクダの戦いを行った。イスラム教徒同士の闘争に恐れを覚えたズバイルは戦場から退却したが、逃走中にウマイル・イブン・ジュルムーズに殺された。別の伝えではアフナフに殺されたともされる。アリーは剣を見て嘆息したと伝えられる。彼は8度結婚し、20人の子供をもうけた。妻の一人アーティカは、ウマルの寡婦でもあった詩人で、ラクダの戦いでズバイルを失ったことを嘆く哀悼詩がよく引用される。スンナ派の伝統は彼が楽園を約束された一人とし、シーア派の伝統は否定的にとらえている。
同じ年に亡くなった人物
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