伝記
アリー・イブン・アビー・ターリブは、イスラームの第4代正統カリフ(在位656年から661年)で、シーア派では初代イマームとされる人物である。601年9月13日に生まれ、661年1月28日に没した。マッカ(メッカ)のクライシュ族ハーシム家に属し、祖父は預言者ムハンマドと同じアブドゥル・ムッタリブで、父アブー・ターリブはムハンマドの父の同母弟にあたる。つまりムハンマドの父方の従弟であり、母もムハンマドの祖父の姪であった。誕生は600年か602年ごろともいわれ、生まれた場所は父の家とする説と、カアバの内とする説がある。伝承によれば、母は初め彼を「ハイダラ」(獅子)と名づけようとしたが、父がこれを退けて「アリー」(高貴な人)とした。別の伝承では、誕生を祝いに来たムハンマドが命名したという。
5歳のとき、アブー・ターリブ一家が窮乏したため、アリーはムハンマドと妻ハディージャに引き取られ、養子として育てられた。610年ごろにムハンマドが最初の啓示を受けると、アリーはハディージャに次ぐ2番目の信者としてイスラームを受け入れたとされる。622年のヒジュラの夜には、暗殺を狙う刺客を欺くためムハンマドの寝床に身代わりとして横たわり、刺客は不在に気づいて去った。アリーは、その後も3日間マッカにとどまり、ムハンマドが預かっていた金を精算してからマディーナ(メディナ)へ向かったという。ヒジュラ後はムハンマドの片腕として教団の運営や戦いに携わり、バドル、ウフド、ハンダクの戦いで敵の名高い勇士を倒し、ハイバルの戦いではイスラーム軍の誰も落とせなかったハイバル砦を陥落させたと伝えられ、勇将として名を上げた。623年には、ムハンマドの娘ファーティマと結婚した。ファーティマが生きている間、他の妻を迎えず、彼女の死後に別の女性と結婚して多くの子をもうけたという。
632年にムハンマドが没すると、ウンマは最初の危機を迎えた。マデルングによれば、アリーはムハンマドとの親密な関係と幅広い知識から、後継者に最もふさわしいと考えられていたが、アブー・バクルが合意によって選ばれ、若さを理由にアリーは外されたと言われる。634年にアブー・バクルが病没するとウマルが後継に指名され、644年にウマルが奴隷に刺されて没した際には、有力者による選定でアリーも候補に挙がったが、選ばれたのはウスマーンだった。ウスマーンは自分の家系のウマイヤ家を重んじたため、他の家系の反発を招き、656年に暗殺された。カリフ位をめぐってアリーとウマイヤ家のムアーウィヤが争い、紆余曲折を経てアリーが第4代カリフに就いた。
ムアーウィヤとアーイシャは就任に反発した。656年、アリーはまずアーイシャの一派をラクダの戦いで退けた。ムアーウィヤはウスマーン殺害の責任がアリーの一派にあるとして、血の報復を叫んで戦い、657年のスィッフィーンの戦いで両者は激突した。戦況はアリーが優位だったが、ムアーウィヤは策を用いて和議を結んだ。この結果ムアーウィヤは敗北を免れて勢力の一方の雄となり、アリーは兵を引いたことで支持の一部を失った。和議に反発した支持者の一部はアリーと決別し、イスラーム史上初の分派といわれるハワーリジュ派を形成した。ムアーウィヤは660年に自らカリフを称した。アリーは661年にハワーリジュ派によって殺害された。子のハサンとフサインは第2代、第3代のイマームとされ、その子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くとしてスンナ派にも尊崇される。墓廟はイラクのナジャフにあり、カルバラーとともにシーア派の重要な聖地である。
同じ年に亡くなった人物
- 斉明天皇 (661年没)
- Tamim al-Dari (661年(推定))
- アリペルト1世 (661年)
- イブン・ムルジャム (661年)
- Fakhitah bint Abi Talib (661年)
同じ地域に関係する人物
- Ibrahim al-Nakhai (714年没)
- ムハンマド・バーキル・ハキーム (2003年没)
- Ibn Abi Shaiba (910年没)
- ムハンマド・ムハンマド・サーディク・アッ=サドル (1999年没)
- シャイフ・トゥースィー (1067年没)