HISTORICAL PERSON · 673年没

金庾信

三国時代の新羅の将軍。金官伽倻の王家の血を引き、金春秋を武烈王に即位させ、660年に唐と共に百済を、668年には高句麗を滅ぼした。新羅の朝鮮半島統一に最大級の貢献をした。

生涯
673年没
死亡地
大韓民国(慶尚北道 / 慶州市)
出生地
大韓民国(鎮川郡)
出典
世界地図
大韓民国(慶尚北道)

伝記

金庾信は、三国時代の新羅の将軍であり、上大等を務めた人物である。595年に生まれ、673年に79歳で没した。新羅による朝鮮半島統一に最大級の貢献をしたとされ、三国統一戦争の将軍の中でもっとも名高い存在である。

出自は伽耶の王家と新羅の王室の双方につながる。532年に新羅に併合された金官伽耶の王家の血を引き、祖父の金武力は最後の王である仇衡王の子とされる。父は金舒玄で、母の萬明夫人は第24代国王真興王の弟、金粛訖宗の娘であった。『三国史記』の金庾信列伝は、首露王の後裔であり、祖先は中国の黄帝の子、少昊金天氏にさかのぼるので金姓を名乗った、と記す。庾信は現在の鎮川郡にあたる地で生まれ、15歳で花郎の一員となり、18歳のころには剣の達人であり国仙、つまり花郎の長になっていたという。629年、34歳のときには新羅軍の全軍の指揮を任されたとされ、632年に従姉妹の徳曼が善徳女王として即位してからも、王軍の総司令官であり続けた。善徳女王の治世には一万人の私兵をもち、百済との戦いで何度も勝利して、新羅で屈指の有力者となった。

王族との結びつきも深かった。庾信自身は王族ではなかったが、妹が金春秋に嫁いで文明夫人となり、その長子がのちの第30代国王文武王である。庾信も、のちに武烈王となる金春秋の三女の智炤夫人を妻に迎えた。647年、毗曇の反乱のさなかに善徳女王が没すると、庾信は金春秋とともに真徳女王を立てて補佐し、女王の没後は金春秋を武烈王として即位させた。新羅は648年、高句麗と百済の同盟に対抗するため唐に救援を求めた。655年に高句麗と百済が新羅を攻めたとき、新羅は唐と結んで対抗したとされる。

660年、新羅は唐と共同で百済に進軍した。新羅軍が約5万、唐軍が約13万という大軍で、百済の都の泗沘を攻めた。百済の将軍階伯は約5000の兵で迎え撃ち、激戦となったが、庾信らの軍はこれを破り、同年のうちに百済は滅びた。この戦いの最中、唐の将軍蘇定方とのあいだで何度かもめごとを起こしたと伝わる。663年には白村江の戦いで倭と百済の残党勢力を退けた。661年の高句麗攻めは退けられたものの、高句麗は弱り、667年からの再度の攻勢を経て、668年に滅びた。その後も新羅は各地の抵抗勢力を鎮める必要があり、やがて唐の軍を朝鮮半島から退け、半島を自らの支配下に統一した。庾信は生涯、百済・高句麗・新羅が別々の国ではなく一つであるべきだと考えていたといわれる。

668年12月、文武王は庾信に太大角干の官位を贈った。これは、それまでの新羅の官位で最高だった大角干を上回るものとして設けられた位である。五百戸あまりの村を受け、669年には全国に散らばる142か所の馬牧場も与えられたという。673年7月1日、あるいは8月21日とも伝わる日に没し、十人の子を残した。文武王は嘆き悲しみ、香典として帛千匹と租二千石を下賜した。のちの興徳王の時代(826〜836年)には、興武大王に封じられた。さまざまな伝説も残る。反乱の鎮圧を命じられたとき、大きな星が落ちるのを見て兵が凶兆と恐れて戦おうとしなかったため、大きな凧に火の玉をつけて空に揚げ、星が天へ帰ったと見せて兵を奮い立たせたという話がある。島と本土に軍が分かれたときに凧で連絡を取ったという話もある。また、酒に酔った夜に馬が妓女の家へ連れていったのを怒り、母との約束を破ったとして馬の首を斬ったという逸話もある。『三国史記』は庾信に伝3巻を充て、編者の金富軾は乙支文徳の知略や張保皐の義勇をたたえつつも、庾信の功名は抜きん出ていると記した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物