伝記
閻立本は、唐の初期に活躍した画家であり官僚である。仁寿元年(601年)に生まれ、咸亨4年(673年)に没した。雍州万年県、現在の陝西省西安市長安区の出身で、人物図や肖像画を得意とし、太宗に仕えた宮廷画家として知られる。生年については、600年ごろとする記述もある。
出自は名門であった。母は北周の第3代皇帝武帝の娘にあたる清都公主で、立本は第4代皇帝宣帝の甥、第5代皇帝静帝の従弟にあたる。先祖はもと馬邑の出で、立本が生まれる何代も前に関中の地へ移っていた。父の閻毘は隋の煬帝に仕えて宮殿の事務を扱い、自らも画を描く人であった。宮廷の装飾は絵画だけでなく、冠服や車輿の設計、土木事業にまで及ぶ仕事であり、父は技工にすぐれていた。この父の影響で、兄の閻立徳と立本は早くから絵を志したとされる。二人は都で育ち、父から絵を学んだ。立徳は線だけで描く白画を描いたと文献に見え、立本は鄭法士などの影響を受けて人物画を好んだといわれる。兄弟は建築や土木の面でも朝廷に尽くし、立徳には橋梁の構築で大きな功績があった。
立本は家の学問をよく身につけ、政務にも通じていた。初めは公共事業の企画で名を知られたが、しだいに芸術の才で際立つようになり、そのため太宗はさまざまな画を彼に命じた。武徳9年(626年)には太宗の命で、秦王であった時代に仕えた十八人の学者を描く「秦府十八学士図」を制作し、褚亮が賛を書いた。643年には、太宗の治世を支えた功臣二十四人の肖像も描いたとされる。ほかに「王会図」「歩輦図」などを描いたと伝えられる。太宗が愛した馬の肖像も命じられ、これをもとに陵墓の六つの浮彫がつくられたという。浮彫は動物の姿を自然に写した、中国美術では珍しい作風と評される。ボストン美術館に伝わる「歴代帝王図巻」は、前漢の昭帝から隋の煬帝までの十三人の皇帝を描いた図巻として名高い。ただし現存するものは北宋時代の模写とされる。太宗が後継ぎの子に君主のあるべき姿を示すために描かせたともいわれる。この時代の絵画は王の権威を示す役割が重んじられ、個性の表現は抑えられた。立本の作品も、細く力強く緻密な線が連なる古来の描き方であった。そのころ西域の画派が台頭し、尉遅乙僧らが新しい風を吹き込んだが、立本の伝統的な画法は薛稷らに受け継がれた。
立本には、画家としての名声を苦く思ったという逸話が残る。太宗が侍臣たちと春の苑で池に舟を浮かべて遊んだとき、珍しい鳥が波間に浮かんでいるのを見て喜び、臣下に詩を詠ませたうえで、急ぎ立本を呼んでその姿を写させようとした。宮中では「画師閻立本」と呼び立てる声が響いた。立本はすでに主爵郎中の地位にあったが、走り回って汗まみれになり、池のほとりに伏せて絵の具を手に取った。居並ぶ賓客の前で、赤面するのを止められなかったという。退出後、立本は子どもたちを戒め、幼いころから読書と詩文を好んだのに、いまは絵でだけ名を知られ、下僕のような仕事をさせられる、これ以上の恥はない、おまえたちはこの芸を習ってはならない、と語ったと伝わる。
高宗の時代、立本は官僚としても昇進した。顕慶年間(656〜661年)には宮廷の建築を担い、のちに兄の立徳のあとを継いで工部尚書となった。669年の初めには右相となり、673年に没するまで宰相の任にあった。太宗の没後も絵の依頼は続いたといい、こうした皇帝の庇護が画業に大きく影響したと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- ズィヤード・イブン・アビーヒ (673年)
- Ecgberht of Kent (673年)
- Fayruz al-Daylami (673年)
- アブ・アイユブ・アル・アンサリ (673年(推定))
- 金庾信 (673年没)