HISTORICAL PERSON · 702年没

陳子昂

唐初期の詩人。武則天に才を認められ官職を得たが酷刑政治を批判して投獄され、晩年は県令の讒言で再び投獄されて獄死した。六朝の華美を脱した詩風で盛唐詩の礎を築いた。

生涯
702年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(四川省 / 射洪県)
出典
世界地図
中華人民共和国(四川省)

伝記

陳子昂(ちん・すごう、661年〜702年)は、唐代初期の詩人である。字は伯玉。梓州射洪県、現在の四川省遂寧市射洪市の出身で、のちに陳拾遺とも呼ばれた。則天武后の時代に官僚として仕え、詩の改革者としても知られる。

裕福な家に生まれた。若いころは勇ましく大胆で、馬を走らせ、狩りや遊びを好み、学問を好まなかった。18歳になってもまだ読み書きがまともにできなかったとされる。やがて学校で熱心に学ぶ生徒たちを見て、あるいは無学な自分に嫌気がさして、故郷近くの金華山の学舎に入り、懸命に学び始めた。数年のうちに経書、歴史、諸子の書に通じ、文章にすぐれて、司馬相如や揚雄を思わせる文を書いたという。神仙の術も学んだ。679年に長安へ出て国子監で学び、682年には科挙を受けたが落第して郷里に戻った。684年、24歳で進士に及第し、四川出身者として初めての及第者となった。その後、則天武后が彼の文才を高く評価し、麟台正字に任じた。高宗の崩御後に陵墓をめぐる問題が起こった際、上書したことが武后に才能を認められるきっかけになったともいう。やがて右拾遺に昇った。

武后は酷吏を重んじ、密告と冤罪、恣意的な投獄が増えていた。陳子昂は上書を重ね、司法の乱用を批判し、有徳で有能な人物を用いるよう訴えたが、多くは顧みられなかった。この批判のために投獄されたが、その誠実さを認められて復職したとされる。一方、691年に継母の喪のため職を離れて帰郷し、693年7月に東都に戻ったのち、翌年に反武后の一派に加わったという疑いで投獄され、695年に釈放されて右拾遺に復したともいわれる。696年(万歳通天元年)、武攸宜の率いる契丹討伐軍に参謀として従軍し、文書や書簡の事務を担った。戦果の上がらない武攸宜に策を上書して諫めたが、受け入れられず、かえって降格された。

698年ごろ、年老いた父の世話のために官を辞して帰郷し、道教を学んで心の憂いを和らげた。翌年に父が亡くなると、喪に服した。もともと病弱だったため、衝撃で体調が悪化した。そこへ射洪県令の段簡が、陳家の財産をねらって、あるいは武氏一族にそそのかされて、陳子昂を誣告して投獄した。たびたび引き出されて尋問され、獄に出入りする歳月ののち、702年(長安2年)、憤りと悲しみのうちに獄中で亡くなった。射洪の独坐山に葬られた。

詩風は、六朝の華美さを離れ、漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とするもので、盛唐の質実な詩の礎となった。「感遇」三十八首は阮籍の「詠懐詩」を下敷きにした五言古詩の連作で、変わらないと考えられた神仙的な世界と移ろう現実社会を対比させ、歴史を鑑とする詠史の形で社会批判も盛り込んでいる。契丹討伐への従軍の際の作である「薊丘覧古」や「登幽州台歌」は、人間という存在の孤独さを表した。詩のほか上奏文を収めた『陳伯玉集』があり、十巻に詩127首と文110編余を収める。「感遇」は道教の影響が強く、当時の詩としては平易な語で書かれている。「登幽州台歌」は不朽の名作として知られる。彼はまた「仙宗十友」の一人にも数えられる。その詩は王維、李白、杜甫ら盛唐の詩人たちに受け継がれ、唐詩ならではの詩が生まれる土台を築いたと評され、後世の詩人たちの先駆とみなされている。李白や杜甫も彼を手本と認めたとされ、「唐詩の祖」と呼ばれる。力強い作風と高い志の詩から「詩骨」とも称される。

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