HISTORICAL PERSON · 264年没

鄧艾

吃音ながら知略に優れた魏の武将・政治家。済河論を著して運河と屯田の整備を進言し、姜維の北伐を洮城への先回りなどで幾度も防いだ。晩年は蜀漢へ攻め入り、劉禅を降伏させて蜀漢を滅ぼした。

生涯
264年没
死亡地
中華人民共和国(四川省 / 綿竹市)
出生地
中華人民共和国(新野県)
出典
世界地図
中華人民共和国(四川省)

伝記

鄧艾は、後漢末期から三国時代の魏の武将・政治家である。字は士載で、荊州義陽郡棘陽県の人。建安2年(197年)に生まれ、景元5年(264年)に没した。内政・軍事の両面で多くの功績を挙げ、姜維の北伐を幾度も防ぎ、晩年には蜀漢を征伐して劉禅を降伏させた。

吃音であったが、知略と強い意志を兼ね備えていた。幼くして父を亡くし、曹操が荊州を征したとき故郷から連行されて、汝南の屯田民とされた。12歳のとき母に連れられて潁川に赴き、陳寔の碑文に「文は世の範たり、行ないは士の則たり」とあるのを読んで、自ら名を鄧範、字を士則と名乗った。のち同じ名の一族が出たため、鄧艾、士載に改めた。12、3歳で県の役人に召され、同い年の石苞とともに襄城典農部民に配属された。御者を探していた郭玄信は二人と語らううちに気に入り、将来は九卿・宰相に昇るだろうと言ったという。吃音のため疎まれてなかなか出世できなかったが、苦学して稲田守叢草吏となった。高い山や広い沼地を見るたびに軍営に適した場所を測量して地図に記したため、嘲笑する者も多かった。上計吏として都に赴いたとき司馬懿に才能を買われ、属官、次いで尚書郎に昇進した。

当時、田地を広げて穀物を蓄え、呉を滅ぼす基礎にする計画が立てられた。鄧艾は陳項以東から寿春までを視察し、田地は良質だが水が少ないと指摘して、渠を開いて灌漑と水運を整えるべきだと考えた。『済河論』を著し、淮北に2万人、淮南に3万人を屯田させる案を進言した。この案によれば、毎年500万石を超える穀物を軍糧に回せ、6、7年で3千万石を蓄えられるという。司馬懿はこれをすべて実行に移し、241年に運河が完成した。これにより淮南で事変が起きても船団を長江・淮河へ容易に送れるようになり、251年に王淩が謀叛を起こしかけたときも、司馬懿の船団が急行して頓挫させた。

その後、南安太守となった鄧艾は、249年に姜維が雍州へ侵攻すると郭淮に従って防いだ。姜維が退いたのち、廖化が白水の南に陣を構えると、これを足止めの陣と見抜き、姜維自身が洮城を狙うと判断して、夜のうちに軍を移して洮城に立て籠もった。姜維は攻めきれず退却し、鄧艾は関内侯となった。また司馬師には匈奴の劉豹の部族を分裂させる策を進言し、そのほとんどが採用された。253年には、諸葛恪が合肥新城攻略に失敗したのを見て、その破滅は近いと述べ、諸葛恪は帰国後に殺された。のち兗州刺史となり、農事と軍事こそ国家の急務だと上奏して、穀物を蓄え民を豊かにした者を優先して賞するよう説いた。曹髦が帝位に即くと、方城亭侯に進封された。

255年に毌丘倹・文欽が反乱を起こすと、鄧艾は毌丘倹の使者を真っ先に斬り、泰山の諸軍1万余を率いて倍の速さで進み、楽嘉城に浮橋を作った。敵に隙を見せて文欽を誘い出し、大いに破って、文欽を呉へ亡命させた。同年、姜維が隴西に侵攻して王経が洮西で大敗し、狄道城を囲まれると、陳泰とともに救援して包囲を解いた。多くの者が姜維の力は尽きたと言ったが、鄧艾は再び攻めてくる理由を五つ挙げて備えを怠らなかった。256年、姜維は予想どおり祁山へ向かい、鄧艾は武城山や段谷で迎え撃って、胡済との挟撃も封じ、蜀軍を散々に破った。鄧艾は鎮西将軍・都督隴右諸軍に任じられた。のちに蜀漢を滅ぼしたが、予言を的中させた10年後、諸葛恪の轍を踏むように成都で横死を遂げた。

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