伝記
岑参は、中国盛唐の詩人である。字は不明で、岑嘉州とも称する。開元三年(715年)、仙州(河南省葉県)に生まれた。本貫は南陽郡棘陽県で、曾祖父は岑文本、祖父は岑景倩、父は岑植である。父は仙州の刺史を務め、のち晋州の刺史となったが、岑参が10歳のころに亡くなったとされる。729年、15歳のときに一家は嵩山の太室に移り、翌年には少室に移った。家は貧しく、岑参は主に兄について経史の学問を受け、官吏になる準備をしていた。なお、生地を江陵とする記述もある。
734年、20歳で初めて洛陽に赴き、文章を朝廷に献じて仕官を願ったが、落第した。以後、天宝三載(744年)に30歳で進士の試験に第二位で及第するまでの10年間、仕官を求めて長安と洛陽をたびたび往復し、25歳のころからは河朔や大梁などにも旅をして見聞を広めた。及第後に授けられたのは、東宮の役所である右内率府の兵曹参軍で、官位は正九品下であった。地位の低さに不満があった岑参は、749年、安西四鎮節度使の高仙芝の上表により幕僚に迎えられ、掌書記として西域に赴いた。安西都護府は亀茲にあり、長安から2か月以上かかる天涯の地であった。長安にいても昇進は望めないと考え、塞外に活路を見出そうとしたようである。
天宝十一載(752年)から2年余りは長安で過ごしたが、期待した職は得られず、仏門に入ることや隠遁を考えたという。この時期の詩は30首あまり残り、多くは送別の会での作である。753年、封常清が北庭都護などを兼ねると、岑参は安西・北庭節度判官としてその幕下に加わり、のち副使(支度副使)に昇進した。北庭都護府は庭州、今の新疆ウイグル自治区にあった。岑参は5月ごろ長安を出て北庭に赴任し、やがて庭州から、その西約120キロにある輪台に移り、ここを中心に各地へ出向いて判官の仕事に従事した。戦地にあること十余年、その詩は悲憤慷慨するところがあった。
755年に安禄山の乱が起こると、封常清は入朝して賊を防いだ。757年、岑参は鳳翔の粛宗のもとに至り、6月に杜甫らの推薦で右補闕を授けられ、10月に粛宗に従って長安に帰った。759年3月には起居舎人に昇進したが、わずか1か月後に虢州の長史に任じられた。これは、右補闕として権勢ある寵臣を批判したためではないかともいわれる。5月に赴任して3年ほどこの地で過ごした。762年には関西節度判官として潼関に勤め、10月には雍王の史朝義討伐に従って陝州にあった。763年に入京して御史台に勤務したのち、祠部員外郎、虞部郎中、屯田郎中、庫部郎中などを歴任した。
765年11月、51歳で嘉州刺史となったが、蜀中の乱のため梁州から引き返した。翌年、杜鴻漸の幕府に入って蜀に入り、成都に滞在したのち、767年6月にようやく嘉州に赴任した。後世「岑嘉州」と呼ばれるのはこのためである。768年7月、官を辞して東へ帰ろうとしたが、戎州と瀘州の間で群盗に阻まれ、成都に引き返してそこに客居した。翌年の歳末、成都で没した。辺塞詩人として高適と並び称され、同時代人からは「識度清遠、議論雅正」と評された。著に『岑嘉州集』7巻がある。没後30年に子の岑佐公が遺文を集め、杜確が『岑嘉州詩集』8巻を編んだ。403首が現存し、70余首が辺塞詩である。ほかに「感旧賦」と「招北客文」の各一篇が伝わる。嘉州は成都の南方、岷江が長江に合流するあたりにあった。