HISTORICAL PERSON · 770年没

杜甫

中国盛唐の詩人で、李白の「詩仙」に対して「詩聖」と称される。律詩の表現を大成し、洛陽で李白と会って親交を結んだ。751年に玄宗へ「三大礼賦」を奉献し、安禄山の乱で長安が陥落すると反乱軍に捕らえられた。

生涯
770年没
死亡地
隋(湖南省 / 潭州)
出生地
中華人民共和国(鞏義市)
出典
世界地図
隋(湖南省)

伝記

杜甫は、712年に河南府鞏県で生まれ、770年に没した盛唐の詩人である。字は子美、号は少陵野老といい、杜少陵、杜工部、杜拾遺などとも呼ばれる。三国時代から西晋の武将で「破竹の勢い」の語で知られる杜預の末裔にあたり、祖父の杜審言は初唐の宮廷詩人として「文章四友」に数えられた。父は杜閑、母は清河の崔氏の出で、杜甫が幼いころに亡くなった。幼時は叔母のもとで養われ、その看護で命を救われた恩を生涯忘れず、墓誌銘を作ったという。

幼いころから詩文の才があり、718年に初めて詩文を作ったとされる。洛陽で文人の仲間入りをし、呉や越に遊んだのち、735年に科挙の進士を受験したが及第しなかった。741年に楊氏を妻に迎え、744年には洛陽で李白と会い、高適も交えて梁宋に遊んだ。翌年に斉で再会したのが李白との最後の顔合わせになった。746年に長安へ出てから約10年、官職を求めながら得られず、747年の試験にも落第し、衣食に追われて貴人の門に出入りする日々を送った。751年に玄宗へ「三大礼賦」を奉ったところ、玄宗に賞されて集賢院に待制することになった。755年になって、河西の尉は断ったものの、10月に右衛率府兵曹参軍に任じられた。

756年、安禄山の攻撃で長安が陥落し、霊武で粛宗が即位したと聞くと、杜甫は8月に家族を鄜州に残して北方の延州へ向かったが、反乱軍に捕らえられた。無名の詩人であったため重んじられず、長安の城内に置かれただけだったという。757年4月に脱出して鳳翔に至り、粛宗から左拾遺を授かったが、房琯を弁護して怒りを買い、758年に華州の司功参軍へ左遷された。759年には関中の飢饉のため官を捨て、秦州、同谷を経て、ドングリや山芋で飢えをしのぎつつ蜀道を越え、その年の12月に成都に着いた。760年には浣花渓のほとりに草堂を建てた。

成都では厳武ら支援者を得て比較的穏やかな時期を過ごしたが、765年に厳武が急逝したため、妻子を連れて舟で長江を下った。766年に夔州へ移り、白帝城などの名勝を訪ねて詩を作った。768年に江陵へ向かい、公安、岳州と流浪を続け、770年には湘江をさかのぼって衡州に入った。耒陽で洪水のため5日間食べ物がなく、県令から贈られた肉と白酒で亡くなったという話が有名だが、後世の創作とする見方も多く、正確な死因は不明である。冬に湘江の舟の中で客死した。

詩の特徴は、社会の現実を直視する視点にあり、自らの困難を世の中全体の問題としてとらえたことで、後世に「詩聖」と称された。叙述の姿勢は「詩史」と呼ばれ、のちの白居易の諷喩詩に受け継がれた。安史の乱の前後には、政治の腐敗や戦乱のありさまを悲痛な調子で綴り、出来事を一般化せず個別のありのままを描くことで真実に迫ろうとした。代表作には、荒れた長安の春を詠んだ「春望」、社会の矛盾を鋭く指摘した「三吏三別」がある。成都の時期には、悲しみに満ちた詩に代わって自然への穏やかな思いを詠み、「江漲」や、諸葛亮を讃えた「蜀相」などが作られた。夔州以後の最晩年には、憂愁も生きている証だと見なす境地に達し、詩の悲哀は荘厳な趣を帯び、「秋興八首」「旅夜書懐」「登高」などが残された。また『文選』を重んじ、次男の宗武に熟読を勧める詩を贈ったことも知られている。詩の表現への執着は、佳句に耽って、語が人を驚かさなければ死んでも休まないという詩句にも表れている。

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